第2話 赤シャツのその後
では、赤シャツはと云うと、これはだいたい分かってます。その当時の教頭、
ちなみに、滝川事件の時に京都帝国大学総長にあったのが、この小西重直だった。政府から滝川の免職を拒否したのだが、最後に小西の辞任で終わった。同じ様な事は、何時でもあるという事である。
これは余談ではあるが、先の「姿三四郎」も映画化するのであるが、黒澤明の処女作となる。この「滝川事件」も後に戦後の最初の黒澤明の「わが青春に悔い無し」で映画化するのである。
それから、当時、松山中学の校長、
※ なお、漱石と子規が
赤シャツは、松山中学の教頭から校長になりまして、分校の東予中学(現愛媛県西条高校)分校の南予中学(現愛媛県宇和島東高校)を設立する。考古学にも知識があり、古墳を研究したり、また、書道もしたりする。無論、本職の物理教師もする。
1900年(明治33年)松山中学を退職し、その年には山口高等学校教授に任じられ、山口高等商業学校の教授、同校長を歴任した。1924年(大正13年)に退官し、山口高等商業学校名誉教授となり、晩年は京都に住んだ。
夏目とは、一年余りではあるが同僚だった。親しく交流があったが、遠くにあっても手紙などでも交換をしている。
ちなみに、赤シャツ(横地石太郎)は、男子7人女子7人の14人の子沢山です。マドンナに横恋慕をし、うらなりの婚約者マドンナを奪うなんてことは、まずはできません。家には14人の子どもがあるのです。もしかしたら、14人の子どもがあるということで、赤シャツは絶倫だと思い、マドンナに横恋慕したことが小説になったのかもしれません。
赤シャツ(横地石太郎)の家族の写真があります。山口高等学校教授の頃だと思います。古い昔の写真ですが、全員すべて
ここまで書くと、「赤シャツ」とするには、ちょっと気の毒かもしれない。赤シャツのモデルだと聞いた横地石太郎は憤慨したようである。夏目漱石はその事を聞いて「赤シャツは自分の事だ。その当時その中学校に文学士と云ったら私一人なのだから」とか云ったようですが、要するに後の祭りです。
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