第22話 秩序の代償

火の手が上がるキチジョーの街を、僕はただひたすらに走っていた。背後では怒号が飛び交い、どこかでは悲鳴が上がっていた。詩織さんが僕の少し前を走っている。あの冷静だった彼女の肩が震えているのが、今の状況を物語っていた。


「こっち!」

詩織さんの声に、僕は朦朧としかけていた意識を引き戻された。


街の裏道を縫うように走る。かつて自分たちが調査した家々が、今は炎に包まれている。あの家も、この店も、住民たちの暮らしがあった場所だ。それが一瞬で、こんなふうに……。


「なんで、こんなことに……」


息が切れ、足がもつれる。それでも止まれなかった。振り返ったら、もう戻れなくなる気がして。キチジョーで積み上げてきたものが、すべて瓦礫になって崩れ落ちていくのを、見たくなかった。


曲がり角を抜けたとき、詩織さんが急に足を止めた。


「……あかりちゃん?」


そこに、壁にもたれかかって座り込んでいるあかりがいた。顔はすすで汚れ、右足を抱え込んでいる。彼女の目が、俺たちを見た。


「ごめんなさい……逃げ遅れた……動けなくて……」


詩織さんがすぐに駆け寄り、足の様子を確かめる。僕も膝をつき、傷口を見た。ガラス片が突き刺さっていて、ひどく出血している。


「まずいな……このままじゃ……」


詩織さんは持っていた包帯を取り出した。一秒でも早く逃げ出したい、彼女は普通の女の子なのに、医者である矜持が今までの震えを止め、応急手当をあっという間に終わらせた。


「まだ……生きられるよな」


そう呟いた言葉が、自分自身への問いかけになっていた。


あかりさんの足の包帯に血が滲む。二人であかりさんを支えながら僕たちは前に進んだ。僕は耳を澄ませた。遠くから怒号は減り、悲鳴も止んでいった。煙の臭いが鼻をつく。建物のどこかが爆ぜた音がして、地面が微かに揺れた。インフラ整備を進め、多種多様な機械を生み出していたこの街は、光の庭にとって楽しい発火剤なのだろう。


「とにかく東に逃げよう」

あかりさんは片足を引きずりながらも、俺たちにしがみつくように歩みを進めている。


あちこちで人々が逃げ惑っている。子どもを抱えて走る母親、誰かを探して泣き叫ぶ老人、荷物を抱えすぎて転び、火の中に取り残される若者——。


僕たちは、そんな地獄絵図の中を進んでいく。身を隠しながら、なるべく声を出さずに、ただ瓦礫と煙と怒号の狭間を縫うように歩いた。


そのときだった。建物の影から、警察隊の兵士が数人、飛び出してきた。


「伏せろ!」

僕がそう叫ぶより早く、詩織さんがあかりさんを引っ張り倒し、俺も地面に身を投げた。


バン、バン、と二発。どこかで誰かが倒れる音が聞こえた。声もなく、ただ重いものが崩れ落ちるような音。息をひそめ、俺たちはその場に沈んだまま、警官たちが去っていくのを待った。


「……本当に銃の生産ができるようになったのか……?」


ポツリとつぶやいた俺に、詩織さんは返事をしなかった。ただ、あかりさんの手をぎゅっと握っていた。


ようやく開けた場所に出た。煙の向こうに、人だかりが見えた。避けて通ることもできた。でも、僕は足を止めた。詩織さんとあかりさんも黙って僕の後ろに立ち、同じものを見ていた。


あの広場だった。かつて炊き出しが行われ、子どもたちの笑い声が響いていた場所。今は焼け焦げた黒い地面と、立ち込める灰色の煙が支配している。


その中心に、佐伯くんがいた。


いや、いたというべきか、磔にされていた。


両手を広げられ、柱に縛りつけられていた佐伯くんは、なぜか不敵な笑みを浮かべていた。顔も服も煤で汚れていたけれど、その表情は、まるで勝者のようだった。


「お前らは……何もわかっちゃいないんだよ!」


誰に向けて叫んだのか、僕にはわからなかった。光の庭の連中が何人か、彼の周囲を囲んでいた。次の瞬間、誰かが佐伯の足元に火をつけた。


「まさか……!」


僕は詩織さんの手を握りしめた。火が、佐伯くんの服に燃え移る。叫び声はあがらなかった。ただ、炎と共に歪む笑顔と、煙の向こうで揺れる赤い影があった。


「佐伯くん……!」


詩織さんがかすかにそうつぶやいたが、僕は声が出せなかった。何もできなかった。ただ見ているしかなかった。



炎が燃え上がるのを背にして、僕たちはその場を離れた。煙とすすが追ってくるようで、しばらく何も話せなかった。詩織さんも、あかりさんも、無言だった。ただ足音と、遠くで響く銃声だけが耳に残った。


街はもう、完全に警察隊に掌握されていた。武装した警官たちが、光の庭の残党を次々と取り押さえていく。逃げる者、抵抗する者、それぞれの末路を僕は遠くから見ていた。


それは「鎮圧」と呼ばれるには、あまりにも乱暴で、あまりにも容赦がなかった。


だけど僕は思ってしまったのだ。


――これで、やっと街が静かになるかもしれない、と。


自分の中で何かが壊れていく音がした。警察隊のやり方に嫌悪感を抱きながらも、秩序が戻っていく様子に、どこか安心している自分がいた。復興、という言葉が頭に浮かぶたびに、犠牲が必要だったのだと、無理やり納得しようとしていた。


詩織さんが俯いたまま、ぽつりと言った。


「……あれが、正しい方法だとは思えない」


僕は何も返せなかった。何も言い返せる資格がなかった。


広場に戻ることはできなかった。あそこはもう、誰のものでもない。佐伯くんの最期が焼きついたあの場所を、僕は一生忘れられないだろう。


それでも、歩かなきゃいけない。僕たちは、生きていかなきゃいけない。

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