第23話 帰還、疲労、任務

帰ってきたのに、「帰ってきた」と実感できなかった。

本部庁舎のドアを開くと、生ぬるい乾いた空気が顔に当たった。この扉は気圧の抜け道になっているようだ。


詩織さんは僕の少し前を歩いていた。背中は伸びているけれど、その歩みはどこかぎこちない。右肩には大きなバッグ。あの騒動のあと、避難区画から持ち出したものが入っている。傷はもう塞がっているようだったけど、歩くたびに彼女の顔が少し歪むのが分かった。


僕たちは少しの間休暇をもらえた。というよりも入院が必要だったし検査が必要だった。医療班にもそんな余裕はなく、自宅で少しゆっくりしていろ、というお達しで束の間の休息は終わったのだ。


受付の前を通ったとき、職員たちが手を止めた。

誰も言葉を発しない。ただ視線だけが集まってくる。


「……あれが、光の庭の……」


「戻ったんだ……」


小さなささやきが背後で聞こえた気がして、僕は思わず振り返った。でも、みんなは何事もなかったかのように端末を見ていた。気のせいかもしれない。けど、僕の耳が拾ったあの声のトーン――驚きでも、心配でもなく、「見るべきものを見た」という乾いた反応だった。


詩織さんは一度も振り返らなかった。無言のままエレベーターに乗り込むと、地下の調査員フロアのボタンを押した。僕もそのまま乗り込み、ボタンの横に立ったけど、彼女と目を合わせることはできなかった。


沈黙が、痛かった。


ドアが閉まってからも、音のない空間に二人きり。

あの場所で起きたすべてが、まだ身体にへばりついているみたいだった。


死者の名前。避難の失敗。襲撃されたキチジョー。

僕が言いたいことはたくさんあるはずだったのに、声にならなかった。


二人で階段を上がる。

詩織さんが一歩踏み出した瞬間、僕は小さな声で言った。


「……詩織さん」


彼女の肩がほんの少しだけ揺れた。でも、足は止まらなかった。

そのまま、彼女は淡々と一段一段上に上がり、二階のドアに消えていった。


「……おかえりなさい」って、言いたかっただけなんだ。

僕は口を閉じたまま階段の真ん中に立ち尽くしていた。


あかりちゃんはどこに行ったのだろう。無事だといいが。


「一ノ瀬くん〜」


課長が僕の部署のシマの中央窓際で僕を呼んだ。


僕は課長に頭を下げる。

課長はいつもと変わらない表情で机に座っていた。課長はどこか匂う。ここの空気だけがまるで別の世界のように整っていた。棚には成果報告書のファイルが几帳面に並べられている。


あの「光の庭」の騒動があったとは思えないほど、落ち着いていた。


「まあ、座って」


課長の声も変わらない。あの独特の、事なかれ主義者らしい抑揚のない口調だった。


僕は壁際に放置されたボロ椅子を引き寄せ、小さく座った。


「まずは……お疲れさま」


「……はい」


返事はそれだけだった。何をどう説明すればいいのか分からなかった。


「報告書の要点は読んだよ。君が提出したドラフトも目を通した。まあ……正直、現場は混乱していたようだけど、個人の責任を問う段階ではない。今はまず、事態の沈静化が先だ」


僕は無言のまま、課長の言葉を聞いていた。


「ただね」


課長は声のトーンを少しだけ下げ、眉間に軽くしわを寄せた。


「詩織さんの件だ。医療従事者が本部の許可なく移動した件、これはまずい。彼女には厳重注意が入ることになる。書類上は“独断専行”と記録される」


「……それは、僕の指示ではありません」


思わず、そう言っていた。

課長は軽く首を振る。


「分かっているよ。だから、彼女個人の責任になるだけだ。君の責任ではない。少なくとも、いまは、ね」


その「いまは」が、胸に引っかかった。


「被害が出てしまったことは、もちろん重大だが、報道には出していない。まぁ、その報道も誰が読むのかわからんけども。特区外での小規模な衝突とだけ伝えてある。上も『対応中』というスタンスを崩さないだろう」


課長は、相変わらずの調子で続けた。

僕たちが何を失って帰ってきたかなんて、きっと本気では考えていない。彼にとって重要なのは、本部の評判、政府の立場、報道との整合性。そして「これ以上の問題を起こさないこと」だ。


「まあ、しばらくはゆっくりしてくれ。次の現場が決まり次第、通達する。……何か言いたいことは?」


言いたいことは、山ほどあった。

詩織さんの判断は間違っていなかったこと。

僕が何もできなかったこと。

襲撃者たちがなぜ動いたのか、本当に調べる気があるのか。

……でも、何を言っても、きっとこの部屋の空気は変わらない。


「……いえ。ありません」


僕は立ち上がって、軽く頭を下げた。


部屋を出ると、廊下は妙に静かだった。まるで本部全体が、あの事件に口を閉ざしているみたいだった。


会議室は、静かだった。

人が多く集まっているのに、誰も余計な声を出さない。資料をめくる音、何かを必死に書いている音、席に着くときの椅子の軋み。それだけが、やけに耳に残った。


僕は壁際の席に座っていた。

出席者の中で、現場を知っているのは、僕だけだった。現地報告書が淡々と読み上げられていく。


「光の庭において、一時的に住民間の暴力的衝突が発生。複数の死傷者が出たものの、現在は治安回復。詳細は別紙……」


誰も、死者の名前を口にしない。

誰も、「なぜ起きたのか」を本気で問おうとしない。

その空気が、息苦しかった。


「今回の件を受けて、特区外の警察力の強化が検討されております。武装巡回隊との連携、監視システムの導入、立ち入り制限区域の再整備などが……」


議題は、早々に「再発防止策」に移っていた。

住民がなぜ怒り、何を訴え、何を恐れていたのか。

そこには誰も触れない。表面だけをなぞって、次へ、次へと進んでいく。


「この件について意見がある方は?」


議長役の幹部職員が問いかけたが、手を挙げる者はいなかった。課長も同じだった。視線を宙に泳がせ、何も言わずに座っていた。


僕は迷っていた。

このまま黙っていていいのか。

キチジョーのみんなが命を懸けて生きていたあの日々を、ただの“問題行動”で終わらせていいのか。


けれど、僕は結局、何も言えなかった。

言葉が、喉の奥で詰まっていた。

言えば何かが変わる気もした。けれど、同時に、何も変わらない気もした。


会議は終わった。


会議室を出たとき、ふと、ひとりの若手職員が僕に声をかけてきた。


「……一ノ瀬さん、あの、無理に言わなくて正解だったと思いますよ。波風、立てても意味ないですから」


その顔は、まるで「忠告」のようだった。

「良い人」風の優しさに見えて、その実、何も守らない言葉。


僕は曖昧に笑って、うなずくしかなかった。


廊下の窓から、雨が見えた。

東京の空は久しぶりに濡れていて、アスファルトに小さな水たまりを作っていた。

灰色の空が、妙に本部の雰囲気に似合っていた。


会議を終えて、僕は自分のデスクに戻る途中だった。

そのときだった。角を曲がった先で、詩織さんの姿を見つけた。


「あっ……」


思わず声が漏れた。


彼女は、足を止めない。

まっすぐ前を向いたまま、ただ歩いてくる。僕に気づいていないのか、それとも気づかないふりをしているのか、どちらなのかはわからなかった。


すれ違いざま、僕はもう一度、少し強く呼びかけた。


「詩織さん!」


その声に、彼女の足が、一瞬だけ止まった。

けれど、振り返ることはなかった。


横顔だけが見えた。

感情のない、無表情な顔。

怒っているわけじゃない。泣いているわけでもない。疲れ切った顔だった。


その目は、何かを見ているようで、何も見ていないようだった。


「……ごめん」


なぜか、その言葉だけが口をついて出た。


けれど詩織さんは、何も言わず、歩き出した。

僕の「ごめん」は、彼女に届いたのだろうか。

それすら、わからなかった。


――何がいけなかったのか。

――僕は、彼女の力になれたのだろうか。


僕の中で、ぐるぐると思考が巡る。

言いたいことは山ほどあった。

あの夜、何が起きたのか。どう思ったのか。これから、どうしたいのか。

でも、それらは全部、うまく言葉にできなかった。


ただ、背中だけが遠ざかっていく。

今まで一緒にいたはずの距離が、いきなり遠くなったような気がして、胸の奥が冷えた。


何も変わらなかった。

僕たちは、何も乗り越えられていなかった。


そして、そんな自分が、少しだけ情けなかった。


課長に呼び出されたのは、その日の夕方だった。


机の上に散らかりすぎない程度の書類と、なるはずのない内線電話。

窓の外では、雨がまだ降っていた。


「座ってくれ。一ノ瀬くん」


課長は無表情のまま言った。


僕が腰を下ろすと、彼はデスクの引き出しから、一通の封筒を取り出した。

白く、やや厚手の紙封筒。表面には、見慣れた公用書式の印刷がある。


「次の派遣先だ」


淡々とした口調。まるで、僕が疲れていることも、先日の件が尾を引いていることも、何もなかったかのようだった。


「もっと休ませてって言ったんだけど、人遣いが荒いね〜」


課長はニヤニヤしながら、封筒を僕に渡す。


「山間部だって、南関東の奥地にある地域でね、ダムの再稼働を検討している。水力発電のポテンシャルが高い。ただし、あそこもまた、例によって“空白地帯”だった」


“空白地帯”。感染初期に政府の手が及ばず、封鎖され、今もなお正確な実態が不明な区域。


「なんだか重要な任務が増えてきたね。3日以内に準備して行ってくれってさ」


僕は封筒を受け取った。

その重さは紙数枚分のはずなのに、やけにずしりと手に残った。


「……わかりました」


返事は自然と出ていた。


課長は一瞬だけ目を細めたが、すぐにいつもの事務的な顔に戻る。


「うちの部署の期待の若手だ。期待しているよ。一ノ瀬くん」


課長のその言葉に、僕は黙って頭を下げ、部屋を出た。


――また、現場に出る。

誰かが行かなきゃならないのなら、僕が行けばいい。


迷いはある。

怖さもある。

けれど、止まってはいられない。


僕は、階段を下りる。

また泥にまみれた現場に行く。

電気のない夜に、言葉の通じない人々に、希望も絶望もまるごと受け止める場所へ。


もう一度、現地で答えを探す。

自分が何をしたくて、何を信じてここにいるのか――それを。


廊下の窓から、夕闇の東京を見た。

静かな雨はまだ止んでいなかった。

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ゾンビパンデミック後の崩壊した日本で、復興省の公務員として生きる僕は、滅びた街を救うべく今日も走り続ける チョイス @choice0316

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