第20話 トリガー
佐伯の背中は、普段より少しだけ小さく見えた。
場所は、旧区役所の一室。窓には布がかけられ、外の光はほとんど入ってこない。部屋の隅には、かすかに埃の匂いと、張り詰めた空気が漂っている。
対面に座るのは、警官隊のリーダー格と見られる男。昨日の男だ。黒い防弾ベストの上から、ひときわ目立つ銀の腕章が、やけに威圧的だった。
「我々は、治安の維持を目的としている。……だが、ここキチジョーに関しては、ずいぶんと"独自のやり方"をしているようだな?」
嫌味交じりに言ったその言葉に、佐伯さんは動じることなく応じた。
「僕たちなりに秩序を守ってきたつもりです。おかげでここは、他の地域よりもマシな生活ができている」
「それは結構。ただ……上が納得しない。協力体制をはっきりさせる必要がある」
その言葉のあとに続いた条件は、"準警官隊"としての編入だった。名目上は協力関係だが、実質的には従属に近い。
佐伯の拳が、わずかに震えたのを見た。
「僕たちは自治を手放すわけじゃない。あくまで、対等な立場での協力だ」
「そのつもりだ」
警官隊の男は笑った。どこまで本気かはわからない。
数秒の沈黙ののち、佐伯は深く息を吸ってから言った。
「いいでしょう。協力します。……ただし、キチジョーの民の安全だけは、必ず保証していただきたい」
「それは……お約束しよう」
口先だけの言葉かもしれない。けれど、これが最善だった。
前交渉がおわり、佐伯と警官隊のリーダーだけが部屋に残ることになった。佐伯は部屋を出る僕のほうを一瞬だけ見た。その目に宿っていたのは、怒りでも屈辱でもなく――
哀しみだった。
僕は、話し合いをしている部屋のすぐ外にいた。部屋の扉は閉じられ、内部の声はほとんど聞き取れなかったが、時折、低くうなるような声や、テーブルを叩く音が漏れ聞こえてきた。
待機している警官隊のメンバーたちは、無言で廊下に並び、金属の棒を持っていた。いくら政府とはいえ、まだ銃を生産できるほどの物資はないらしい。少し政府をバカにしたあとで、自分の立場がよくわからなくなってきた。
警官隊は無駄に姿勢がよくて、その威圧感がいやでも伝わってくる。彼らに話しかける気など起きなかった。逆に、僕がここにいること自体が場違いなように思えた。
やがて、扉が開いた。
佐伯が先に出てきて、僕と目が合ったが、何も言わず通り過ぎた。その表情からは、どこか安堵のようなものが読み取れた……が、同時に何かを飲み込んだような、重たい気配もあった。
続いて出てきたのは、警官隊のリーダー。浅黒い肌で、茶色の軍用コートを羽織り、つばの深い帽子をかぶった男。
「まあ、話はまとまった。お互い、血を流すつもりはないってことだな?」
彼はそう言って、にやりと笑った。その目は笑っていなかった。むしろ、佐伯たちが膝を折ったことに対する勝利の色が滲んでいた。
「“準警官隊”……」思わず僕は声を漏らした。
「そうだよ。民間からなる治安維持部隊。現地の安全は、現地の人間が守る。素晴らしい建前だと思わないか?」
彼はそう言って、僕の肩をぽん、と軽く叩いた。
「君も一応、“復興省”の人間なんだろう? お偉いさんに報告してくれ。“秩序”が、戻りつつあるってな」
まるで、自分たちがこの街を掌握しつつあることを見せつけるかのような口ぶりだった。
彼らが去った後、佐伯は静かに息を吐いた。
「……このままじゃ済まないかもな」
僕は何も言えなかった。ただ、空気が変わったことだけは、はっきりと感じていた。
この街に、緊張が走っていた。
協定締結の知らせは、翌日には街中に広まっていた。
「キチジョー市民と警官隊が和解した」「これからは一緒に治安を守るらしい」といった言葉が、炊き出しの列や物資配給所で飛び交っていた。
街の広場には、仮設の演壇が組まれ、そこには「共同治安維持協定 締結式」と大きな文字が掲げられていた。
まるで戦後の講和条約でも結ぶかのような大仰な空気に、僕は胸の奥がざわつくのを感じていた。
「僕たち、ホントにこれでよかったのかな」
ふと漏らした僕の独り言に、隣でポリタンクを運んでいたあかりが振り返る。
「……うまくいくといいね。でも、詩織さん……なんか最近、無理してる顔してる」
彼女の言葉に、僕は胸がつかえる思いだった。
彼女は言っていた。
「医者として、みんなに血が流れるようなことを賛成するわけにはいかないの。キチジョーのみんながパンデミック後も“生き延びた”ってことを、誇ってほしい」
……その願いが、報われると信じたかった。
その日の夕方、僕は調査報告を仕上げ、仮庁舎へ向かっていた。
途中、街角に貼られたポスターが目に留まる。
《明日正午 協定締結式典開催》
ポスターの下には、整列するキチジョーの若者たちと、警官隊の隊員が握手を交わすイラストが描かれていた。
まるで理想郷の一場面だ。でも、それがあまりにも“作られすぎて”いて、僕は目を逸らした。
本当にこんな未来が来るのだろうか?
いや、来てほしい。来てほしいけれど――
胸の奥で、言葉にならない不安が膨らんでいた。
式典当日。空はどこまでも青く澄み、風も穏やかだった。
にもかかわらず、広場にはどこか緊張した空気が流れていた。
僕は群衆の中から壇上を見守っていた。
舞台の上には、佐伯と警官隊のリーダー――豊田というらしい――が並んで立っている。
周囲には警官隊の隊員、そしてキチジョーの若者たちも整列していた。
詩織さんは少し離れた位置から見守っていた。
彼女の表情は硬く、それでいて何かを祈るような、張り詰めた眼差しだった。
リーダーがスピーチを始める。
「我々は、秩序ある未来のために、民間との連携が必要であると考えている――」
どこか型にはまった演説だったが、群衆からは拍手が起こった。マイクがないのによく通る声だった。僕は腹の底が震えるのを感じた。
続いて佐伯が語る。
「この協定は、我々の自治を守るものだ。強制されるものではなく、共に選んだ道だと、そう信じたい」
拍手が二度目に起こったとき、壇上で二人が歩み寄る。
――いよいよ握手の瞬間だった。
そのときだった。
パンッ!
乾いた破裂音が空気を裂いた。
一瞬、時間が止まったかのような静寂。
次の瞬間、悲鳴が広場を包む。
「誰かが撃たれたぞ!」「嘘だろ、なんで!?」「血だ! 血が出てる!」
撃たれたのは、佐伯の近くにいたキチジョーの若者だった。
胸を押さえ、膝から崩れ落ちるその姿を、僕は信じられない思いで見ていた。
「やめろ! ふざけるな!」
佐伯の怒声が響く。
警官隊の誰かがすぐに加害者の名を叫んだが、群衆の怒りは収まらなかった。
怒号、罵声、拳を振り上げるキチジョーの人々。
銃を構える警官隊の隊員。
――地獄が始まる、その直前だった。
「やめろ! こっちは市民だ! 敵じゃない!」
僕は無我夢中で壇上へ走り出した。
その瞬間、背後から腕をつかまれた。
振り返ると、詩織さんがいた。
その目に浮かんだのは恐怖ではなく、悲しみだった。
「もう止まらない……かもしれない」
詩織のつぶやきが、耳の奥にずっと残っていた。
騒乱の火種は、あっという間に燃え広がった。
撃たれた若者はその場で息を引き取り、現場は怒りと混乱の坩堝と化した。
「もう我慢できねぇ! やるしかねぇだろ!」
「アイツらが俺たちを信用してないって、結局そういうことだ!」
キチジョーの青年たちが怒声を上げ、手に手に棒や石を持ち始める。
それに応じるように、警官隊も防御態勢を取った。互いに睨み合い、睨み合い、あと一歩で衝突しそうな緊張。
「待て、落ち着け……!」
僕は必死に制止しようとした。
けれど、その声は誰にも届かなかった。
「暴発だったとしても、仲間が撃たれた。責任は取ってもらう」
佐伯は冷静なトーンで言った。
「佐伯くん、暴力はダメだ……! 詩織さんだって、ずっと市民の安全を――!」
「市民の安全? もう遅い。あの発砲で、線は越えられた」
その言葉と同時に、僕の腕をがっちりと掴む手が背後から現れる。
「なっ……!」
振り返ると、それは詩織さんだった。だがその表情は見たこともないほど険しい。
「ごめん……これ以上あなたに関わらせるわけにはいかないの」
彼女の背後には、キチジョーの若者数人がいた。
「一ノ瀬諒、あなたはここでしばらくおとなしくしていて」
「まさか……僕を、閉じ込めるのか……?」
「……ごめん。でも、あなたが暴走するよりはまし」
僕はそのままキチジョーの住居ビルの一室、懲罰房へと連れて行かれた。
朽ちた鉄扉の向こう、薄暗い部屋に押し込まれる。
「詩織さん……なんで……」
閉じられた扉の外で、かすかに怒号と足音が聞こえた。
僕は鉄の扉に額を押しつけて、歯を食いしばる。
この街は今、確実に崩れようとしている。
積み上げてきたものすべてが、銃声ひとつで瓦解する――。
けれど、僕は諦めない。
どんなに絶望しても、誰も信じられなくなっても、僕にはまだ、守りたいものがある。
その思いだけが、僕を支えていた。
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