第17話 一ノ瀬諒絶体絶命
キチジョーの仮設診療所で、今日も詩織さんと住民たちの手当を続けていた。
僕の役目は主に雑用。調査官でこれだけの人数がいる街なのだから、その役目を果たしたいところだったが、手伝えと言う詩織さんの指示で包帯を持ってきたり、水を汲んだりしている。
「一ノ瀬さん、これ、持ってくださいっ」
ふわりと笑いながら、姫野あかりが僕に包帯の束を押しつけた。わずかな電気で工業を復活させようと努力する住民たちの生傷は絶えなかった。
「あ、ありがとう……」
至近距離。甘い香りが鼻をくすぐる。
無邪気な笑顔に、どきりと胸が跳ねた。
詩織さんとは違う、柔らかくて、無防備な雰囲気。
僕は慌てて顔をそらしながら、胸の奥で警報が鳴るのを感じた。
(……だめだ。浮かれるな、僕。)
彼女は天然なだけだ。たぶん、誰にでもこんな風に接している。
わかっているのに、心が勝手に彼女に向かってしまう。
隣では、詩織さんが住民の包帯を巻きながら、ちらりとこちらを睨むような視線をよこしていた。
僕は何もしていない。していない、はずなのに──。
診療所の仕事が一段落し、僕は裏手の倉庫に備品を整理しに行った。
薄暗い中、荷物を抱えて棚を探していると、背後からそっと人影が近づいてくる。
「一ノ瀬さん、ちょっと、いいですかぁ?」
甘ったるい声。振り返ると、そこには姫野あかりがいた。
いつもの無邪気な笑顔を浮かべながら、すっと僕に距離を詰める。
「え、えっと……なにか用?」
「ん〜、一ノ瀬さんって、すっごく頼りになりそうだなって……思ってぇ」
柔らかな手が、僕の腕に絡む。
そのまま、軽く身体を寄せてくる。
近い。危ない。いろんな意味で。
「ちょ、ちょっと待って、あかりさん……」
心臓がバクバクとうるさく跳ねる。
彼女は悪びれもせず、潤んだ目で僕を見上げてきた。
あと数センチ、いや、もう数ミリで、何かが起こる──そんな瞬間。
「姫野さん! ちょっと手伝って!」
奥の部屋から詩織さんの声が飛んできた。
その瞬間、あかりは「あ、残念〜」と小さく笑って、くるりと踵を返して出ていった。
取り残された僕は、膝から崩れ落ちそうになりながら、必死に頭を冷やした。
(……何やってるんだ、僕は。)
夜。
寝床にしているベーカリーの一階に、僕と詩織さんは並んで座っていた。
昼間の忙しさが嘘みたいに静かで、気が緩む。
詩織さんは、ぐったりと天井を見上げている。
「……もう、あの子、マジで無理」
ぽつりと、疲れ切った声がこぼれる。
「誰が『あんな』子に手伝ってほしいなんて頼んだ? ねぇ、誰なの?」
詩織さんは黒髪をかきむしりながら悪態をついた。
普段は冷静な彼女からは想像もつかない取り乱し方に、僕は思わず苦笑する。
「で、でも……あかりちゃん、悪気はないと思うし……その、明るいし、元気だし、助かってる住民も多いと思いますよ?」
あかりさんを必死でかばう僕。
だって、あの屈託のない笑顔や、ちょっとドキッとする無防備な仕草を思い出すと、自然に庇いたくなってしまう。
詩織さんは僕をじろりと睨んだ。
「……一ノ瀬くん、あの子に騙されてるよ」
ぼそっと、呟いた。
それから急に、ぐしぐしと目をこすりながら、子どもみたいに泣き出した。
「もう、みんな勝手すぎる……! 私だって、頑張ってるのに……!」
叫ぶようにして、詩織さんは立ち上がり、ドタドタと二階の寝床に上がっていってしまった。
ぽかんと取り残された僕。
胸の奥に、妙な罪悪感と、消化しきれないもやもやが残った。
(……僕は、何をやってるんだろう。)
翌朝。
詩織さんは、まるで僕の存在が見えていないかのように、無言で朝の準備をしていた。
声をかけても、うんともすんとも言わない。
昨日のことをまだ怒っているのは、火を見るより明らかだった。
(……やっぱり、怒らせちゃったよな……)
僕は気まずい気持ちを抱えたまま、診療所の玄関先でぼんやりと立ち尽くしていた。
そんな僕に、あかりさんが駆け寄ってくる。
「おはよ、いっちー先輩!」
屈託のない笑顔。
細い腕で僕に抱きつくようにしがみついてきて、顔を上目遣いに覗き込んでくる。
「あのね、今日ね! お昼、空いてたら、一緒にごはん食べにいこ?炊き出しだけど」
キラキラした瞳で見つめられ、僕は曖昧に頷いてしまった。
その様子を見た詩織さんが、ほんの一瞬、ものすごく嫌そうな顔を僕に向けた。
と、そのとき。
「榊原さん」
バイオリンのように空気を緊張させる声が響いた。
振り向くと、佐伯さんが立っていた。詩織さんを手招きする。
「詩織さん、少し時間をもらえますか」
「……はい」
詩織さんはわずかに戸惑いながらも、佐伯さんの後について診療所の奥へ消えていった。
残された僕は、目の前のあかりさんと顔を見合わせる。
「ねぇ、行こ? いっちー先輩!」
あかりさんが手を引いてくる。
詩織さんのことが気になりながらも、僕はその手を拒むことができなかった。
こうして、僕たちの小さなすれ違いは、何となく曖昧なまま、続いていった。
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