第16話 姫野あかりと榊原詩織
キチジョーの街は、確かに活気に満ちていた。
電気も、農作物も、ギリギリながらも自給できている。けれど——医療だけは、どうにもならなかった。
「お願いです! 診てください!」 「この子が熱を出して……!」
医者だとバレた詩織さんのもとに、次々と人が押し寄せる。
僕は少し離れた場所から、その光景を黙って見つめていた。
彼女は、ひとつひとつ丁寧に応じていた。
脈をとり、熱を測り、薬を処方し包帯を巻く。中央政府でごくわずかに生産された薬剤や消毒液は限られていて、治療は応急処置が中心だ。
「ごめんね、これ以上のことはここじゃできないの」
優しく微笑みながらも、詩織さんの顔には疲労が色濃く滲んでいた。
——無理もない。
ろくな設備がない場所で、一人で何十人もの相手をするなんて。
僕は拳を握った。
この世界では、医療を受けられるということ自体が、どれだけの贅沢か。
それでも、彼女は目の前の患者を見捨てなかった。
そんな詩織さんの姿を、僕は誇りに思ったし、同時に心配でもあった。
「せんせーいっ!」
明るい声とともに、ぴょんぴょん跳ねるように近づいてくる少女がいた。
年の頃は僕とそんなに変わらない——いや、もっと若いか。おそらくギリギリ成年(この世界に成人という概念がまだ残っているなら)、たぶん、十八歳くらい。
肩まで伸ばした栗色の髪を揺らして、元気いっぱいに笑っている。
胸元に小さな十字のバッジをつけているけれど、どう見ても医療関係者には見えない。
「あのっ、あのっ、わたし、姫野あかりって言います! 先生のお手伝い、させてくださいっ!」
あまりの勢いに、詩織さんは目を瞬かせた。
僕も、あっけにとられる。
「あなた……看護師なの?」
詩織さんが静かに問うと、あかりは満面の笑みを浮かべた。
「ちがいますっ! でも、なりたいんです! それに、ママも昔、看護師だったんです!」
ママ。
その言葉に、詩織さんの表情が微かに揺れた。
「それに、わたし、先生みたいになりたいんです! かっこいいし、キレイだし、やさしいしっ!」
まるでアイドルに憧れる少女みたいに、目を輝かせながら語るあかり。
その無邪気さに、思わず僕は苦笑した。
詩織さんは、しばらく黙っていたが——
「……憧れだけで医療はできないわ」
淡々と言い放つと、背を向けて去ってしまった。産婦人科医、赤ちゃん。村での出来事を昨日のことにように思い出す。
ポカンとするあかり。
慌てて僕は声をかけた。
「まぁ、気にすんなよ。詩織さん、今いっぱいいっぱいなんだ」
「……そっかぁ。でも、わたし、がんばる!」
満面の笑みを返してくるあかりに、僕は少しだけ救われる気がした。
あかりは本当に、悪気がないのだろう。勝手に看護師の真似事をしはじめた。
けれど、それが余計にタチが悪かった。
「せんせーい! 包帯ってどっちから巻くんでしたっけっ?」
「先生、これって消毒してから貼るんですかぁ?」
「先生っ! 血が……うわあああああああああ!!」
いちいち声がデカい。
それに、無駄に元気だ。
ちょっと動くだけでポニーテールが跳ね、制服の胸元も軽く上下する。彼女は上下に豊満なものを持っていたのだ。それに比べ、詩織さんは苦労を重ねたのだろう、とてもスリムだった。
正直、あかりのボディは男の目線を釘付けにするのも無理はない。
僕も、ふとした瞬間に目のやり場に困ることがあった。
それに気づいた詩織さんは、明らかにムスッとしていた。
「あの子は……。はぁ……」
詩織さんがため息をつくたび、僕は内心で苦笑いする。
「まぁ、明るくていいじゃないか。今のこの世界、ああいう元気なやつ、貴重だろ?」
気休めのつもりで言ったつもりだった。
けれど詩織さんは、僕を睨むように見た。
「……あなたも、気をつけなさいよ」
その言葉に、僕は背筋がゾクッとした。
たしかに、あかりは可愛い。
無防備で、柔らかそうで——
「……うん。気をつける」
思わず即答してしまった。
あかりが、純粋な瞳でこちらに手を振ってくる。
その無邪気さが、ある意味いちばんの爆弾かもしれなかった。
あかりの明るさは、時に場をかき乱した。
けれど、確かに周囲に活気をもたらしていたのも事実だった。
詩織さんはため息交じりに、けれど優しい手つきでけが人の手当てを続けている。
あかりは、そんな詩織さんの背中をじっと見つめながら、一生懸命メモを取っていた。
「先生みたいな、かっこいい医療者になりたいです!」
そう叫んだあかりの声に、手当てしていたおじさんが笑った。
周りの若者たちも、なんだか笑顔になっていた。
詩織さんは少し顔を赤らめながら、そっぽを向いてぼそっとつぶやいた。
「……勝手にしなさい」
それでも、彼女の耳までほんのり赤いのを、僕は見逃さなかった。
小さな街、キチジョー。
まだまだ医療も発電も、問題だらけだ。
けれど、あかりみたいな子がいる。
詩織さんがいる。
僕だって、まだやれることがある。
「よし、俺も……いや、僕も、頑張らないとな」
そう心の中で呟きながら、僕はあかりに呼ばれて、またドタバタの現場に駆り出されるのだった。
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