第12話 吉祥寺へ
朝の空は曇っていた。
灰色の雲の下、東京の特区にある自宅の前で、僕は自転車の荷台を最後にもう一度だけ点検した。
「諒、気をつけてね」
母の声は、どこか無理に明るくしようとしているようだった。
「うん、大丈夫。今回は前ほど遠くないから」
そう答えながらも、胸の奥には小さな重みが残っていた。吉祥寺は、感染後の混乱がある程度収まったとはいえ、特区の外にある街だ。しかも、政府と敵対的な空気すらある若者たちが支配する場所。
「あの……ほら、この間知り合った詩織ちゃんは、今回は行かないの?」
「彼女はお医者さんで忙しいからね」
母の問いにそう答えたけれど、実際はわからなかった。
僕は自転車のペダルに足をかけ、もう一度、家の前に立つ両親を見た。
父は無言のまま、小さく頷いた。その顔には、何か言いたげな迷いと、信頼が入り混じっていた。
「行ってきます」
そう言って、僕はペダルを踏み込んだ。ゆっくりと走り出す車輪の音が、朝の静けさをかすかに切り裂く。
振り返らずに進む。けれど心のどこかで、あの玄関先の光景がずっと残っている気がした。
今回の任務は、これまでと少し違う。調査だけじゃない。説得。交渉。人の心を動かすこと――。
自分にできるだろうか。
けれど、選ばれたのは僕だった。
だから、行く。
僕はまだ薄暗い道を自転車で進んでいた。
前回の調査よりもやや距離は短いとはいえ、片道二時間。道路は一見整っているが、ところどころ地盤が割れ、アスファルトの隙間から雑草が勢いよく伸びていた。
途中、水道の蛇口が生きている場所を見つけ、ボトルに水を補給する。地図に記されたルートをたどりながら、目につく建物の状態を確認し、メモに記録していく。
そんな風に淡々と進んでいたとき、背後からタイヤが舗装を鳴らす音が聞こえた。振り返ると、見慣れた顔が汗を拭いながらペダルを踏んでいた。
「……詩織さん?」
「はあっ、はあっ……やっと追いついた……!」
彼女はヘルメットを脱ぎ、長い髪をかき上げた。その顔には、何かを決意したような強さがあった。
「なんで……どうして……?」
問いかける僕に、詩織は笑いながら言った。
「医療班、今は事務仕事ばっかり。物資の配分とか患者リストの整理とか……それって私がやりたかったことじゃない。私は、現場で人を助けたいの」
「でも、無断で出てきたの?」
「一応、行き先は伝えたわよ。記録には残しておいたから、きっとバレない」
バレるに決まってる、と言いかけたけれど、僕は言葉を飲み込んだ。
彼女の目は真っ直ぐだった。僕は公務員だけど、非常事態はマニュアルを超越した働きを見せないといけないことはわかっている。世界の混乱の最中、自分の信じた道を進むと決めた詩織さんの気持ちを尊重した。
というのは建前で心細い今回の出張に、美人の友達が来てくれるのは真冬の露天風呂のように芯から心が温まる感じがあったからだ。
僕たちはそれから一時間ほどだんだんと雪解けのように温まっていく空気の中を自転車で駆け抜けた。
吉祥寺に足を踏み入れた瞬間、僕は思わず自転車を止めた。
目の前に広がる光景は、これまで見てきたどの街とも違っていた。
駅前のロータリーには廃材とアクリルで組まれた巨大なオブジェが立ち、そこにペンキで描かれた文字が乱雑に踊っている。意味はわからない。ただ、強烈な意思だけが伝わってくる。
遠くから鳴る重低音のビート。電気ではない巨大な楽器から鳴らされる音の振動。耳慣れないリズムに乗って、青年たちが身体を揺らしている。
「……ここ、本当に日本なのか?」
僕は思わず呟いた。
建物の壁という壁にはグラフィティがびっしりと描かれていた。炭と泥と廃材インクで塗られたモノクロの世界。
それは芸術なのか、怒りなのか、あるいは祈りか。とにかく、感情が剥き出しになっている。
ファッションも独特だった。ビニールのカーテンをまとったような服に、電飾のついたヘルメットをかぶる青年(灯ってはいないが)。顔をペイントで飾った女性たち。誰もが「自分」を強烈に主張していた。
「スーツ姿なんて、ギャクにクールだね」
すれ違った青年に肩を叩かれ、冗談混じりに言われる。
僕は苦笑いを返すことしかできなかった。
ここは、完全に異世界だ。秩序よりも表現。抑圧よりも爆発。破綻の縁を踊るように、生きている。
この街の空気は、明らかに政府と対立している。けれど、だからこそ――
「この街には、何かがある」
僕はハンドルを握り直した。
これからここで、何が待っているのだろうか。
かつては商店と人で賑わっていたこの街が、今ではまるで別の国のようになっていた。
シャッターの降りたビルの壁には、さまざまな色のペンキでスローガンが書かれている。
「若者による、若者のための都市を」
「我らは生き残り、そして自由だ」
周囲の建物にはソーラーパネルが取り付けられ、発電装置の低い唸りが街に微かに響いていた。元コンビニだった建物には物資交換所の張り紙が貼られ、歩くのはどの顔も10代~20代前半の若者たちばかり。子供も老人も、この場所にはいない。
「……想像以上だね」
詩織さんが、息をのむように言う。
「本当に、若者だけで成立してる」
僕は頷いた。この空間の張りつめた空気は、ただの自治ではない。彼らは「世界と断絶すること」を前提に暮らしている。政府の統治下ではなく、自分たちだけのルールで、自分たちだけの生活を営んでいるのだ。
通りに立つ警備係と思しき若者が、僕たちに視線を向けてきた。すぐに、二人の青年がこちらに向かって歩いてくる。
一人は茶髪で、無精ひげ。もう一人はボウズ頭に手製のジャケットを着ている。どちらも警戒の色を隠していない。
「よう、中央から来たってやつらか? 役人の匂いがプンプンするぜ」
僕は手を挙げて挨拶した。「復興省調査官の一ノ瀬です。今日は、状況確認の協力を――」
「協力ぅ?」
茶髪の青年が鼻で笑った。
「こっちは困ってねえし、管理されるつもりもない。帰んな」
「あんたらがこの街に何しに来たかなんて、だいたい想像つく。若者だけでやってるのが気に食わねぇんだろ?」
僕は口を閉じた。反論するより、今は情報を得る方が重要だ。
「せっかくだから、リーダーに会わせてくれませんか」
そう言うと、ボウズ頭の青年が言った。
「リーダーに会いたいなら、ちゃんと手続き踏め。まずは門番のとこに行って、許可取ってこいよ」
「門番……ですか」
「鉄扉のとこだ。西公園の奥。行けばわかる」
そう言い捨てて、彼らは背を向けた。
僕は詩織と顔を見合わせる。
「険しい道のりになりそうだね」
「でも、進むしかないよね。ここまで来たんだから」
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