第11話 平穏な日々と不穏な音

二週間ぶりに帰った家は、やっぱり落ち着く場所だった。

帰り着いた瞬間、母の作った味噌汁の香りが部屋に広がり、父がちょっと笑いながら「おかえり」と言った。

久しぶりの団らん。家族が揃っているだけで、心が温かくなるのを感じた。

前回の派遣でどんな思いをしたか、言葉にできるほど冷静ではなかったから、せめてこの時間だけは何も考えずに過ごした。

こうして無事に帰ってこられたことに、心から感謝していた。


でも、気づけばあっという間に次の指示が下され、また次の調査のために家を離れなければならないことが分かっていた。

現実はいつも容赦ない。


数日後、上司に報告書を提出した。

やはり教団についてはまだ不明な点が多く、東京西部の調査で名前を「光の庭」と呼ぶことだけは分かっているそうだ。

政府としても、教団の動向にかなり警戒しているようだった。

だが、それでも僕が送り込まれたのは不明なことばかりで、正直に言ってやりきれなかった。

西側での調査が始まってから、教団の存在はますます脅威を感じさせるものになってきた。

それなのに、僕はそんな危険な場所に送り込まれたのか。


怒りが込み上げてきた。僕はただの捨て駒だとしか思えなかった。

でも、その怒りをぶつける相手もなく、胸の奥に閉じ込めるしかなかった。


報告を終えた後、上司が言った言葉が耳に残る。

「榊原詩織は医療班に戻った。根岸颯太くんは感染難民保護施設に送った。彼の状態は少し危ういが、施設内での生活は少しでも安定させる必要があるから。」

詩織さんはまた、あの忙しい医療班に戻ったんだ。きっと彼女にとってもあの仕事は大切なものだろうし、それに戻るのは当然のことだろう。

でも、颯太が施設に送られたことが気にかかる。彼はずっと無事でいてくれるのか、ただその一言が頭の中で繰り返されていた。

何もできなかった。だからこそ、どうしても心が落ち着かない。


家族との団らんから、現実に戻る時間はあっという間に来た。

次の命令が下り、僕は再び中央政府から指示を受ける。

ああ、またか…。

次の派遣先もまた、誰かを守るための調査だ。


そうして、また無理やり気持ちを切り替え、僕は新たな指示を受けることになる。


翌日。僕は本省の会議室に呼び出された。

毎月、定例会議という名の締まりがない報告会はあるが、今日は臨時会議だった。メモ帳を丸めてダラダラと入った僕たちを見たことのない脂ぎった男たちが一瞥してきた。まるで張りつめた糸のような空気が漂っている。


着席してすぐ、会議は始まった。

壁際には内閣府、復興省、厚生省、さらには防衛省の職員まで集められていた。

机には資料のファイルがいくつも積み重なり、表紙には太字で「治安維持隊組織案(警察隊案)」の文字が記されている。


「……これより、新設される治安維持部隊の体制について報告を行う」


発言したのは、かつて警察庁長官だったとされる白髪の男だった。

彼は今回の組織編成において、いわば“実質的なトップ”として復権した。

年齢は七十を超えているはずだが、声は低く、よく通っていた。

その声が会議室に響くだけで、何人かの職員は思わず姿勢を正していた。


「我々は法の支配の下に秩序を回復する必要がある。終末の混乱期に、正義は失われた。だが、復興の今こそ、正義は再び現れるべきだ。……その象徴として、我々は『警察隊』を新たに立ち上げる」


静かな拍手が起こる。

誰もが義務的に手を叩いているのが分かる。

この会議において「沈黙」は「反対」と同義だということを、誰もが理解していた。

形式だけの礼賛。だが、そういう場面において形式は絶大な意味を持つ。


「若者の徴用については、特区での求人活動に加えて、各地区でスカウト形式の採用も行う。旧制度下での警察経験者や、司法系大学出身者などの推薦を受け付ける方向で調整中だ」


警察隊、か。

それが何を意味するのかはまだはっきりとは分からない。

だが、教団や野盗、そして地方で崩壊しかけた秩序に対抗する“力”を政府が欲していることだけは、明白だった。


会議が終わって数日。僕はいつも通りの業務に戻っていた。


調査報告書のチェック、他課との連絡、次回の予算折衝資料の下書き――いずれも“復興省”の名にふさわしく地味で、だが重要な仕事だ。

淡々と書類を積み上げながら、ふと、あの教団の話が脳裏に浮かんだ。


「光の庭」――。


破壊活動と放火、やつらの目的は何なのか。

政府も明らかにその動きを警戒している。

にもかかわらず、あのとき僕があの地に送り込まれたことを思い返すと、胸の奥にじんわりとした怒りが広がった。


「……一ノ瀬君、課長が呼んでるよ」


隣の席の先輩がひと言。

僕は頷き、急いで書類を揃えると席を立った。



---


課長室のドアをノックし、中に入ると、課長は資料を読みながら静かに僕を手で制した。


「……座って」


目線を資料から上げないまま、彼は言葉を継いだ。


「次の派遣先が決まった」


一瞬、時間が止まったような気がした。

早すぎる――そう思ったが、口には出さなかった。

代わりに頷いて、話の続きを待つ。


「場所は吉祥寺。中心部からは外れているが、前回に比べれば比較的近い。住民も少なくない。だが……特異な点がある」


課長は初めて顔を上げた。

その視線は、静かだが、真意を見透かそうとするような重さがあった。


「若者たちだけでコミュニティを作っている。15歳から30歳までしか受け入れない。政府からの支援も受けず、自分たちのルールで生きているそうだ」


僕は目を瞬いた。


「自治……ですか?」


「……と呼ぶには未成熟だが、秩序はあるようだ。問題は、彼らが政府に対して強い反発心を持っていることだ」


課長はデスクから資料を一枚抜き取り、僕に差し出した。

簡単な現地レポートだった。電力は不安定ながら太陽光と風力で一部まかなわれ、共同農園と水源の整備により生活は可能なレベル。外部との接触は最小限。


「今回は通常の調査業務に加えて、政府からの“接触”を試みる。とくに、今後立ち上がる警察隊の若手候補として、彼らと関係を築いておきたい。……現地との最初の橋渡しを、君に任せたい」


その一言で、すべてが繋がった。


僕の年齢、前回の現地経験、そしてあの会議――。

僕は、“懐柔”の顔として選ばれたのだ。


「わかりました」


僕は立ち上がり、深く一礼した。

課長は再び視線を資料に戻しながら、最後に言った。


「とまぁ、ものものしく言ってみたけど、とりあえず見てくればいいから」


責任はとらないよ、という砕けた表現だった。


夜、家の中には夕飯の匂いが漂っていた。


この平穏を、僕は守りたい――その思いは確かにある。

だけど、それがどれほど困難なことなのか、前回の派遣で思い知らされた。


ふと、詩織さんと会話を交わした日々がよみがえる。

彼女は今、医療班に戻り、次の任務を待っている。


再会はあるだろうか。

その時、僕は――変われているのだろうか。


明日、僕は吉祥寺に向かう。

若者だけで作られた“もう一つの社会”へ。

彼らと対話できるのか、それとも拒絶されるのか。

僕自身もまた、試されるのだろう。


呼吸を整えて、布団に入った。

時計の針の音が、やけに大きく響く。


……眠れるだろうか。

そんな疑問を胸に抱きながら、僕は目を閉じた。

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