第10話 新たなる脅威
あれから数日が過ぎた。
片桐さんの出産。
そして、赤ん坊を救えなかった、あの夜から。
詩織さんは変わらず診療所にいた。朝になれば、眠っていない顔のまま室内を片づけて、傷ついた人の手当てをしていた。背中が少し遠く見えた。
僕は、その背中に声をかけられずにいた。
なにを言えばいいのか、わからなかった。結局、僕はなんにもできなかったのだ。
だけど──その朝、僕は自分でも意外なほど自然な声で言っていた。
「裏山、行ってみませんか?」
詩織さんが、少しだけ目を見開いた。
「え?」
「農地の確認も兼ねて……気晴らしになるかもしれません」
彼女はしばらく黙っていた。でもやがて、ほんの少しだけうなずいた。
彼女の温もりを背中に感じて……と淡い期待していたが、彼女は気恥ずかしいと自転車の後ろには乗らなかったので僕は結局荷物になる自転車を押しながら、二人で村の坂道を登った。
舗装されていたはずの道は、草に覆われて、タイヤが泥にとられそうになっていた。
途中、縁側に座っていたおじいさんが、口を開いた。
「おっ、いいねぇ。若いもんがふたり連れだって。デートかい?」
僕は曖昧に笑って手を振った。詩織さんも口元だけ笑ったけれど、目は笑っていなかった。
坂を登りきると、風が吹いた。
湿気を帯びた山の空気が、少しだけ火照った体を冷ましてくれる。
そのとき、ふと気がついた。
詩織さんが立ち止まっていた。
「……大丈夫ですか?」
僕が尋ねると、彼女は小さく息を吸い込んだ。
「うん、大丈夫……ここまで来たの、久しぶりだから。……懐かしいな、ここ」
その言葉に、僕は思わず、彼女の横顔を見つめた。
しばらく、僕たちは何も言わずに歩いた。
木々の間から、遠くに村が見える。どこまでも広がる田畑と、赤茶けた屋根の家々。のどかで、どこか寂しい光景だった。
「……ここ、私の故郷なんだ」
ぽつりと、詩織さんが言った。
「えっ……」
「生まれたのも、育ったのも、この村。小さい頃は、よくこの山道を走り回ってた。……でも、高校を出て、進学で東京に行ったんだ。親に“医者になりたいなら外に出なさい”って言われて」
僕は、ただ黙ってうなずいた。
「親がね、ふたりとも医者だったの。診療所をやってて……たぶん、あの頃は、村で病気になってもうちの親がいるから大丈夫って、そう思われてた」
詩織さんは、小さく息をついて、前を見たまま言葉を続けた。
「私、ずっとお父さんお母さんみたいな医者になりたかったの。特に……産婦人科になりたくて。知ってる?医療の現場で処置が終わった瞬間におめでとうって言うの、産婦人科だけなんだよ。命が生まれる瞬間に立ち会うって、すごいことだと思ってた」
足元の小石を、スニーカーでそっと蹴る。
「でもさ……あの日。パンデミックが始まったあの日。私は東京の中心部にいて……親は村にいた。あっという間だった。特区に閉じ込められて、通信は遮断されて……それっきり、家族とは……」
言葉が止まる。風の音だけが耳に残った。
「中央での医師免許制度も崩壊して……それでも仮免で医療行為を認める特例が出て、私はそれで──なんとか人を救える立場になった」
詩織さんが振り返った。瞳が少し、赤くなっていた。
「お父さんとお母さんに会いたくて、ここに戻ったけど、二人の行方を知っている人はいなかった……そのまま今日までここでやってきたけど、あの子を助けられなかった。死んだ人は何人も看取ったけど、赤ちゃんは初めて……」
僕は返す言葉を持たなかった。
彼女の手の中で、何度も命の重さと、無力さが交差していたのだと思った。
努力ではどうにもならない瞬間が、ある。
けれど、その苦しみは──どこへも逃げ場がない。
僕はただ、遠くの景色を見つめた。
畑の上空に、ゆっくりと白い雲が流れていた。
言葉のない時間が、ゆっくりと流れていった。
自転車を停めて、僕たちは並んで座っていた。少し高台になったその場所からは、村全体が見下ろせた。
「……今日は、ここまでにしよっか」
詩織さんがそう言いかけたときだった。
風が、ふいに変わった。
焦げたような、何かが燃えるような、嫌な匂いが鼻を突いた。
「……煙?」
僕は思わず立ち上がり、視線を遠くへ向けた。
村の方向。屋根の連なるあたりから、灰色の煙が、ゆっくりと立ち上っていた。
一筋、二筋……いや、もっとだ。数か所から、黒い煙が空に向かっていた。
「まさか……」
僕は自転車に飛び乗り、慌ててブレーキを外す。
詩織さんも、表情をこわばらせて、僕の後ろに飛び乗った。
坂道のおかげで初動は詩織さんの重みを感じず、獣道に揺られながらどんどん自転車は加速した。無言のまま、僕たちは山道を下った。
*
村は、燃えていた。
田畑はめちゃくちゃに踏み荒らされ、雨水をためるタンクは刃物で切られたように破壊されていた。
家のいくつかは火に包まれ、黒い煙が天に向かって昇っている。
そして──地面には、奇妙な円形の模様が、白い石灰で描かれていた。
禍々しい記号。それはキリスト教や仏教のような宗教観を思わせるものだった。
「……これは、どういうことだ」
僕は呆然とつぶやいた。
人の気配はない。
けれど、静寂は逆に不気味だった。悲鳴も、泣き声も、何ひとつ、聞こえない。
しかし、田畑にうずくまる影があった。子供だ、と僕はすぐに駆け寄った。
「颯太くん!」
彼はゆっくりと顔を上げた。彼の顔は泥にまみれていた。
「あ……お兄ちゃん……」
「何があった?」
「わかんない……変な格好の人たちがいっぱい来て、みんな……みんな……」
僕は颯太くんを抱きしめた。もう大丈夫だという意味を込めて。
「僕は小松菜の芽が出るまで見張らなきゃいけないから、小松菜を盗まれないようにずっと守ってたの……僕守れたよ……小松菜……」
「あぁ……偉いぞ……立派だよ……」
彼の顔の泥を拭ってやった。涙と鼻水で僕の顔はぐしゃぐしゃになっていた。
「……あぁ……あぁ……」
詩織さんが、ほとんど聞き取れないほどの悲鳴を上げた。信じられない光景に涙すら出なかったようだ。
「……戻ろう」
僕は颯太くんを抱きしめながら彼女に言った。
「ここにいても、もうできることはない。本部に戻って、状況を報告して、できる準備を整えよう。僕たちは警察官や軍隊じゃない……でもこんなことをした奴らを許すわけにはいかない!」
詩織さんは俯いたまま、少しのあいだ立ち尽くしていた。
けれど、やがて小さくうなずいた。
故郷を、ふたたび失ったその目に、涙はなかった。ただ、静かに──その悲しみを受け止めていた。
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