第9話 母か子か

「う……あ、ああっ……!」


 集会所の一角を急遽仕切って作られた“診療スペース”に、妊婦の片桐真奈さんが倒れ込むように運び込まれた。臨月にはまだ数日あるはずだった。だが腹部の張りは強く、羊水の流出がすでに始まっていた。


 詩織は片膝をついて片桐の様子を確認する。脈が速い。顔は蒼白。腹の張り方が異様だった。


「まだ陣痛の間隔が短すぎる……。胎位、下がってる。早すぎる……!」


 額に汗をにじませながら詩織が呟く。だが、手元には限られた道具しかない。滅菌済みのシーツと、簡素な手袋、それに懐中電灯程度の明かり。酸素もなければ点滴もない。


「真奈っ、しっかりしろっ!」


 片桐さんの夫が手を握るが、彼女はうわごとのように呻くだけだった。手が震えている。


「今、産婆さんを……連れてきます!」


 夫が半ば叫ぶように言い、走って出ていく。


 僕は詩織のすぐ後ろに立ち尽くしていた。状況が悪いことはわかる。だが、自分にできることが何もない。


「詩織さん、僕に――」


「出て行って!」


 詩織の怒号が空気を裂いた。振り返ることなく、低く鋭い声で。


「ここは医療現場よ。素人が入る場所じゃない!」


 僕は一瞬言葉を失い、慌てて数歩下がる。ドアの外に出て、そっと背を預けた。心臓の音が異様にうるさく感じる。


 しばらくして、走る足音とともに、老婆が息を切らして現れた。腰は曲がっていたが、その目は鋭く生きていた。


「連れてきたぞ!先生!」


「おばあちゃん……お願い!」


 二人は言葉少なに位置を交代し、詩織が片桐さんの足元を支える。


 僕はドアの隙間から中を覗いた。震える指で拳を握りしめていた。部屋の隅から漏れる悲鳴と、短い怒声、そして祈るような沈黙。


 ただ見守るしかないことが、これほど苦しいとは思わなかった。


部屋の中では、詩織の短く鋭い指示の声と、片桐さんのうめき声が交互に響いていた。小さな民家の一室は、まるで時間が止まったかのような緊張感に包まれていた。


僕は見るに耐えられず壁越しに座り込んだ。固く握った拳は手汗で汗が額をつたう。外はすでに夕暮れが近づいている。分娩が始まってから、もう五時間以上が経っていた。


「どうだ……どうなんだ……」

誰にともなく、呟いた。

だが返ってくるのは、時折聞こえる詩織の低い掛け声と、息も絶え絶えのような片桐さんの悲鳴。


──なんとかできないのか。


僕は立ち上がり、またドアの隙間から中を覗いた。


詩織の額にも汗が浮いていた。表情は険しく、口元は真一文字に結ばれている。

「もう少しよ、片桐さん……もう少し……!」


片桐さんは息も絶え絶えに首を振った。

「お願い……赤ちゃんだけは……赤ちゃんだけは、助けて……」

彼女が泣いているのが声でわかった。命をかけて守ろうとしている小さな命。


その瞬間、僕は背中から迫ってくる何かに気づき、ドアから退いた。ずぶ濡れの男――片桐さんの夫だった。先ほど血相を変えて出ていったが、十分ほどで戻ってきた。小さな薬包と、血圧計らしき機器を抱えていた。

「先生、これ……これで足りるか分かりませんが……っ」

彼の手は震えていた。


詩織はすぐに受け取ったが、彼女の顔は暗い。

「……ありがとう。」


男は唇を噛みしめ、妻の手を握る。

「先生、どうか……妻だけは、妻を救ってください……! お願いします……」


詩織の手が止まった。


(赤ちゃんを助けたい。けれど、このままでは母体の命も危ない。赤ちゃんの回旋は悪く、心音も弱い。無理に引き出せば、母体の出血が……)


「私は、どちらを……」

胸の内で、詩織がかすかに呟いた。


(目の前の命を、どちらかしか救えないなんて……そんな選択、したくない。どちらも救いたい。なのに、どうして……)


「詩織ちゃん……!」

年配の助産婦が言葉少なに詩織を見つめた。その目は、現実を悟っていた。


詩織は両手で顔を覆いそうになるのをぐっとこらえ、深く息を吸った。


「ごめんなさい……赤ちゃんは……」

その言葉を言い切る前に、彼女は片桐さんの様子を再確認した。そして、母体に集中する決意を固めた。


「片桐さん、あなたはまだ生きてる。私はあなたを、必ず助ける」


そして、詩織は赤子の方へと手を伸ばすことはせず、母体の処置に集中した。


僕はその様子を、ドアの向こうから黙って見守っていた。心臓の音が、自分の中でひときわ大きく響く。


命の重みが、空気を押し潰すように部屋を包んでいた。


「公務員さん!一ノ瀬くん!輸血がしたいの!O型の人全員連れてきて!」


急に呼ばれた僕は「はい!」と叫び、背筋を伸ばして外に駆け出した。


診療所の灯りは、夜の闇に小さく滲んでいた。周囲の家々は既に沈黙し、虫の声すらも届かない。静けさが、かえって生々しく今日の出来事を突きつけてくる。


僕が扉をそっと開けると、診療所の片隅に詩織がいた。白衣のまま膝を抱え、診察台の脇にうずくまっていた。背中が小さく震えている。


「……詩織さん」


声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。頬を伝った涙の跡が、薄暗がりでもはっきりとわかった。


「ごめん……今は……」

掠れた声で、顔を伏せようとする。


「違うんだ」

僕は彼女の前にしゃがみ込むと、まっすぐにその目を見る。

「君は、間違ってなかった」


詩織は首を横に振った。

「違う……赤ちゃんを救えなかった。お母さんだけじゃない、家族も、村のみんなも……きっと……誰かが、あの子の死を恨む……」

嗚咽が言葉を崩していく。

「私……どっちも助けたかった。最後まで、最後の最後まで……」


僕はしばらく何も言わず、ただそばにいた。


「僕は見てたよ」

やがて、ゆっくりと語り始める。

「あんなにも必死に、あんなにも真剣に、誰かの命を救おうとしてる人を、僕は初めて見た。だから、思ったんだ……これが、本物の医者なんだって」


詩織はその言葉に、小さく息を詰まらせた。


「結果は……残酷だったかもしれない。でも、君が下した判断に、誰が文句を言える? あれが正解じゃなかったなんて、誰にも言えない」


診療所の静けさの中、しばしの沈黙が流れた。


「……ありがとう」

ようやく、詩織が絞るように呟いた。

「でも……私は、忘れないと思う。あの子の声も、泣き声を聞けなかったことも……全部」


「それでいいんだと思う」

僕は立ち上がり、扉へと歩みかけたが、振り返ってもう一度言った。

「忘れない人が、次を救える。……僕は、そう信じてる」


僕は扉を開けておやすみも言わないままその場を去った。


夜はまだ深く、明けない闇の中だった。

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