第8話 農作業と妊婦

 ――田んぼってのは、まず雑草と戦うところから始まる。


 復興省の研修でそう教わったのは、入省して間もない頃だった。数少ない生存地帯の一つ、東京のど真ん中の公園に作った仮設訓練施設で、僕たち新人調査官はそれぞれ役割ごとの基礎知識を叩き込まれていた。


「いいか、お前ら。水があるだけじゃ田んぼにはならん。畦を作り、水を引いて、土を均して……草を抜き、整え、ようやく“田”になるんだ」


 教壇に立ったのは、元農水省出身の老講師だった。小柄で背筋の伸びた、絵に描いたような「昭和の役人」といった風情の人だった。


「雑草の勢いはすごい。耕しても、抜いても、また生えてくる。だがな……そういう手間を惜しむ奴に食糧自給は任せられん」


 僕はノートを取りながら、頷いていた。復興調査官の仕事は書類をまとめたり現場を視察したりすることが多い。でも本当は、土の匂いを嗅ぎ、手で汗をぬぐいながら“現実”に触れることこそが一番大事なんじゃないか。そう思っていた。


「……お前、マジで真面目に聞いてんの? こんなん現場に出りゃ誰かがやってくれるだろ」


 講義が終わった後、横の席にいた同期の佐々木が僕に笑いかけてきた。彼は講義中、半分以上を寝て過ごしていた。


「まあな。でも、誰かが知らなきゃ話にならないだろ」


 僕がそう返すと、佐々木は鼻で笑って「お前、変なやつだな」と言い残し、立ち去っていった。


 変なやつで結構――僕はその時、本気で思った。災害後の日本で、誰もが「他人任せ」に慣れていく中で、僕はせめて「何かを変えたい」と思っていた。


(あのときの講義、無駄じゃなかったな……)


 目の前には、荒れ地だった場所に僕たちが作りかけている畑がある。鍬を握り、汗を流す農作業。あの講義の内容を、今、確かに活かせている。


✻✻✻


「さて、始めるか」


朝日が村の東の山肌から差し始めた頃、僕は手袋をはめ直して腰を下ろした。目の前には、使われなくなって久しい、雑草に覆われた空き地。元は誰かの畑だったらしいが、パンデミック以降放置されていた。土は痩せていて、雑草がやたらと元気だ。


「こっち側、根が深そうだな。鍬貸してください」


隣で作業していた男、三浦さんが頷いて鍬を渡してくれた。四十代後半の、元・塗装業だという快活な人だ。


「お役人さんが畑仕事とはな。しかも調査官だろ?ここまでやらなくてもいいんじゃないか?」


「役人だって腹は減りますから」


備蓄3ヶ月分という食糧の目安は僕が持ってきた分も含んでいる。僕も助け合わなければこの人達はあっという言う間に飢えてしまう。調査官の仕事よりも必要なことがここには存在するのだ。僕は雑草の根を丁寧に掘り起こしていく。引き抜くだけではまた生える。地面5cm下に張り巡らされたスギナの根を、慎重に断ち切るように掘る。地味な作業だが、これを疎かにすると後が地獄になる。農業講義で聞いた知識が頭をよぎる。


『雑草対策は下準備が九割。表面をなぞるだけなら、農業は成立しない』


(あの講師、変なテンションだったな……でも、正しかった)


「お兄ちゃん、何してるの?」


声の方を向くと、小学生くらいの女の子が土の上に腰を下ろしてこちらを見ていた。頬っぺたに泥がついていて、目だけがキラキラしている。


「雑草を抜いてるんだ。これが終わったら、畑にするんだよ」


「畑って、お米とか育つやつ?」


「うん。あと、お芋とか。ちゃんと準備すれば、ここで食べ物を作れる」


「すごい……魔法みたい!」


少女は目を見開いて言った。僕は少しだけ笑ってしまった。


「魔法じゃなくて、知識と手間の結果かな」


やがて村の数人が加わってくれて、雑草除去の作業はスピードを上げた。元・建築士の西野さんは「水はけを考えて少し傾斜をつけた方がいい」と助言してくれたし、元・教師の若林さんは、子供たちにスコップの使い方を教えていた。


「ターフカッターがあれば楽だったのにな……」


「それ、なに?」


三浦さんが尋ねる。僕は手を止めて説明した。


「芝刈りの一種なんです。雑草を根ごと平らにカットして、土の表面を均す道具。でも今は人力でやるしかないですね」


「ふぅん。まあ、手でやったほうが愛着湧くかもな。ほらよ」


彼はペットボトルを僕に差し出した。中身は、濾過された川の水だった。


「ありがとうございます。……うまい」


冷たくもなければ、特別な味もない。ただ、喉を潤すという一点において、完璧だった。


土に触れると、人間は変わる。作業中の皆の顔には、何かしらの充実感が浮かんでいた。雑草まみれだった地面が、少しずつ「畑」という未来の姿に近づいていく。


(この村に、ちゃんと「希望」はある)


そう思えたのは、久しぶりだった。


✻✻


「お昼だよー。みんな、少し休憩してー!」


陽が高くなり始めた頃、土の匂いに満ちた空気を割って、明るい声が畑に響いた。作業の手を止めて振り返ると、ひとりの女性が、慎重な足取りでこちらに向かってくる。腕には布のトートバッグ。中からは、缶詰がいくつも顔をのぞかせていた。


「……桐谷さん?」


誰かがそう呟いた。彼女の姿に、村の人々が一斉に視線を向ける。


紺色のワンピースに、つばの広い麦わら帽子。お腹は、もうかなり大きくなっている。足元を気にしながらも、彼女はゆっくりと、でも確かな足取りでこちらにやって来た。


「ちょっとしたお昼だけど、持ってきたの」


「い、いや、そんな……歩いて大丈夫なんですか?」


心配そうに声をかけたのは若林さんだった。彼女の眉間には本気のしわが寄っている。


「うん、大丈夫よ。軽い運動したほうがお腹に良いのよ」


桐谷さんはふわっと笑った。安心させるような、でもどこか張りつめた強さを含んだ笑みだった。


僕はそのやりとりを聞きながら、トートバッグから缶詰を取り出して並べる桐谷さんを見ていた。栄養価を考えて選んだのか、ミックスビーンズ、ツナ、トマト、スイートコーン。どれも、野菜のとれない今の時期にはありがたいものばかりだった。


「この中のコーンは、少し取っておいてもらえる?」


「え?」


僕が思わず聞き返すと、桐谷さんはお腹をさすりながら続けた。


「種として使えるかもしれないでしょう? わたし、食べるだけじゃなくて、ちゃんと“育てる”ってことにも参加したいの」


静かに、でも確かな覚悟でそう言った桐谷さんに、場の空気がふっと変わったのを感じた。


「さすが、母は強しだな……」


三浦さんがポツリと呟いた。誰もがうなずき、そして少しだけ顔をほころばせる。そんななか、僕の胸にある記憶がよみがえってきた。


――昨日、ホームセンターで――


息絶えた赤ん坊を必死にあやす母親。極限の中に生きた狂気。彼女に何があったのかはわからないが、想像すればするほど残酷なイメージが脳裏に浮かぶ。


(……この人も、あの人も、“誰かを守る側”だったんだ)


「ありがとう、桐谷さん。……その気持ちが、たぶん一番の栄養です」


僕の言葉に、桐谷さんはまた、あの柔らかい笑みを浮かべた。


「じゃあ、私はちょっと座って休むわね。あとは任せたわよ、復興省さん?」


「はい、畑は任せてください」


缶詰の蓋を開ける金属音が、静かな昼下がりに響いた。おにぎりが食えたら最高だったな、と僕はこの平和を少し残念に思った。



午後に入ると、空の色が徐々に変わっていった。淡い雲が広がり、強すぎた日差しがやわらいで、空気がひんやりと湿り始める。


「あ、これ……来ますね」


そうつぶやいたのは、若い農作業員の佐久間くんだった。空を見上げると、確かにあの独特の匂い――雨の前兆が漂っている。


僕は手袋を外しながら、作業小屋の横に据え付けられた雨水タンクに目をやった。以前、村の空き家から取り外してきたトタン板と、古い浴槽、それからポリタンクを組み合わせて作った即席の貯水装置だ。


「よし、雨樋の角度チェックしとくか」


腰を上げ、雨どいの接合部を確認する。接着に使ったのはシリコンシーラントとガムテープ、雨を流す傾斜をつけるのには、廃材の板を台座代わりにしている。簡素ながら、実際に水が流れ込めば機能するはずだ。


ぽつ、ぽつ。


やがて空から、最初の一滴が落ちてきた。


「きたっ……!」


とたんに、子どもたちがざわざわと動き出す。土遊びをしていた小学生くらいの男の子と女の子が、雨水タンクの前に駆けてきた。


「おじさん! これにお水が入るの?」


「そう、屋根に落ちた雨がこのパイプを通って、ここにたまるんだ」


「わーっ!」


雨粒が次第に大きくなり、ぽたぽたとトタンの屋根を叩く音が村全体に響き始める。雨樋を伝って流れた雨水が、ゴボッと音を立ててタンクに流れ込み始めた瞬間、子どもたちは歓声をあげて飛び跳ねた。


「流れてるー!」


「すごーい! ダムみたい!」


水の流れが見えるよう、タンクの一部を透明のプラスチックにしておいたのが功を奏した。雨水が溜まっていく様子を目の当たりにした子どもたちは、興奮気味に顔を見合わせる。


「ふふ、よく見ててね」


僕がしゃがんで目線を合わせると、子どもたちはびしょ濡れのまま大きくうなずいた。


「君たちに任務を与えよう。これから毎日、畑の芽が出るまで見張りを頼む。芽が出たら、真っ先に教えてね」


「はい、やります!」


「目を光らせとく!」


子どもたちは真剣な顔で敬礼めいたポーズを取った。その後ろで、雨が土を濡らし、やがて蒔いた種を優しく包んでいく。


ふと、詩織が僕のそばに来ていた。傘もささず、濡れた髪が頬に張りついている。


「……いい顔してたね、あの子たち」


「だね。雨が降るだけで、あんなに笑えるなんて」


詩織は少しだけ笑った。その笑顔は、どこか懐かしさと切なさの混じった、壊れそうで、それでいて美しい表情だった。


「ありがとう……役人に振り回されるのはこりごりだと思ったけど、いっぱい助かってる。村を代表してお礼するね」


その言葉に、僕は一瞬だけ胸が詰まるのを感じた。


(いつからだろう、この人の笑顔を見たのは)


言葉にはしなかったけれど、その「ありがとう」は、雨と同じくらい、心を潤すものだった。


しかし雨は必ずしも幸せを運んでくるとは限らない。むしろその逆のほうが多い。

雨音にまぎれて、村の若者が駆け寄ってきた。


「先生!うちの妻が!」


雨音を切り裂く声で叫びひざまずいたのは、桐谷さんの旦那さんだった。

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