第4話 罪は人間として許す

「先生。」


僕がそう呼びかけると、彼女――榊原詩織は足を止め、振り向きざまに鋭く言った。


「先生って呼ばないで。医者じゃないから。」


凛とした声音に、僕は一瞬たじろいだ。でも、そのまま去っていこうとする背中を見て、慌てて言葉を返した。


「仮免許、ですよね。臨時措置法による……」


「そうよ。」詩織は歩きながら言った。「『感染症特別危機対策臨時措置法』に基づいて医師と同等の行為を許されてる。でも、私は医者じゃない。ただ、誰かがやらなきゃいけないからやってるだけ。」


その背中は小さく見えた。でも、そこに背負っているものはあまりに大きい。だからこそ、僕は彼女をもっと知りたいと思った。


「この集落の状況、教えてもらえませんか? 復興省の調査官として、現状を把握しておきたいんです。」


「……勝手についてきて。」


それが彼女なりの「いいよ」だった。


***


詩織の案内で、僕は村の道を歩いた。荒れた道路、崩れかけた家屋、そして不安げにこちらを見つめる人々。僕が着ている“役人”の腕章が、逆に距離を生んでいるのがわかる。


「物資は最低限。医薬品は特に足りてない。発熱が出ても、解熱剤が無いことがある。」


「配給の届きは?」


「数ヶ月に一度。なんで定期的に送れないのかしらね。まぁもらえるだけありがたいけど。特区からの支援物資よ。でも……」


詩織はそこで言葉を濁した。


「でも?」


「物資が盗まれるの。外から来た誰かが紛れてるか、内部の誰かかはわからないけど。」


そのときだった。


「おい、まただ! 倉庫の中身が減ってる!」


診療所の裏手から怒鳴り声が聞こえた。詩織と僕はすぐに向かう。


支援物資を保管していた小屋の錠前が壊され、箱が一つごっそり無くなっていた。中身は、抗生物質と衛生キット。


「いつから?」


「さっきまであった。俺が見張ってたが、ちょっと水汲みに行って戻ったら……」


「つまり、10分ほどの間に。」


「誰か、村の人間の中に裏切り者がいるのかもな……」


その空気は、最悪の方向に傾きかけていた。詩織も言葉を失っている。僕はふと、地面に目をやった。


そして、見つけた。微かに土の上に、白い粉のような跡。よく見ると、それは傷口に塗る抗菌パウダーだった。


「……これ、さっき盗まれた箱に入っていたものですよね?」


「え? ああ、そうね……!」


「こっちに続いてます。」


僕は地面の痕跡を頼りに小屋の裏を抜け、集落の端にある空き家にたどり着いた。ドアを開けると、中にいたのは少年。まだ10歳にもなっていない。


「待って! 僕じゃない! おばあちゃんが怪我してて、薬が必要だったんだ!」


泣きじゃくる少年の前で、詩織はすぐに跪いた。


「どこ? おばあちゃんはどこにいるの?」


***


そこには、数日前に倒れて足を切ったという老女がいた。患部はすでに赤く腫れていたが、少年が盗んだ薬で手当てはされていた。


詩織は素早く処置をしながら、小さくつぶやいた。


少年は日常的な窃盗が癖になり、治療すら盗みに頼ってしまっていた。いや、良心の呵責から誰かに頼むことができなくなってしまったのかもしれない。


「……盗んだのはよくない。でも、責められるべきなのは、助けが届いていない現実の方よ。」


僕も同じ思いだった。法は必要だ。でも人を守るためにあるべきなんだ。


「僕が報告書を書きます。この件は“物資を必要とした住民の自主的活用”と記録する。」


「……そんなことしたら、君が責任を問われるかもしれない。」


「それでも構いません。僕は復興省の一ノ瀬諒です。住民の命を守ることが、今の僕の仕事ですから。」


その言葉に、詩織は初めて表情を緩めた。


「……愚直ね。でも、少し見直した。」


そう言って彼女は立ち上がり、僕の横をすっと通り過ぎた。


「もう“先生”って呼んでも、怒らないでくれますか?」


「考えとく。」


その背中に、少しだけ春の風が吹いたような気がした。

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