第3話 調査で知る初めての現実

 その診療所は、仮設のように簡素だった。だが、扉を開けた瞬間に鼻を突くのは薬品と血の匂い。

 僕はマスクの奥で息を整え、「復興省の調査員です」と名乗った。


 中にいた女性は一瞬だけ振り向いた。

 真っ白なガウンに、薄茶の三つ編み。切れ長の目がこちらを射抜いた。


 「公務員、ね」


 それだけ言って、彼女は薬棚から何かを取り出すと、背を向けたまま包帯を整え始めた。

 僕が何か言おうとした瞬間、彼女は言葉を遮るように呟いた。


 「忙しいの。診察は午後だけ。何かあるなら後にして」


 そして、彼女は扉を開けて出て行った。風がひやりと頬をなでた。


 *


 診療所を後にし、僕は役所から支給された装備を広げた。

 乾パンとゼリー飲料、浄水タブレット。寝袋、簡易テント。どれも最低限だが、命を繋ぐには十分。


 「住める建物があれば利用してよし」との通達に従い、村の家屋を見て回る。

 かつて誰かの生活があった部屋には、まだ湯呑みが食卓に置かれたままだった。


 一軒の家で、僕は生存者を見つけた。


 「誰か……いるのかい?」


 震える声の主は、腰の曲がったおばあちゃんだった。

 彼女はベッドの上から身を起こそうとし、僕の腕にすがった。


 「無理しないで、大丈夫です」


 そのとき、再び彼女が現れた。医療バッグを肩にかけ、素早くおばあちゃんのもとに膝をつく。


 「ほら、お薬飲んで。今日はお熱ないみたいね」


 その声はやさしく、まるで子守唄のようだった。

 彼女は僕にちらりと目を向けたが、言葉は交わさなかった。ただその瞳には、微かな警戒が宿っていた。


 *


 次の家は半壊状態だった。土壁は崩れ、窓は割れていた。

 その中で、一人の老人が横たわっていた。すでに意識はなく、呼吸も浅い。


 「……間に合わなかった」


 またしても、彼女が現れた。

 彼女はそっと手を握りしめ、閉じかけた瞳に静かにタオルをかけた。


 「この方は、息を引き取ったわ」


 淡々と言ったその口元が、ほんの少しだけ震えた気がした。


 僕は、ただ黙って立っていた。


 「村人に伝えるわ。すぐに……焼却の準備をしてもらう」


 「……家族に、最後くらい会わせてやれないのか?」


 ぽつりと漏らした言葉に、彼女が鋭く顔を向けた。

 その表情は怒りでも悲しみでもなかった。覚悟だった。


 「家族なんてもういないのよ」


 静かな声だった。

 「この村にはワクチンが届いてない。未接種の人間が大半。感染リスクが残る中で、余計な接触はさせられない。――それが現実よ」


 そして彼女は、もう一度だけ遺体に布をかけた。

 その手は優しく、しかしためらいがなかった。


 僕は、初めて“現場”を知った気がした。

 ――理想だけでは、誰も救えない。


 *


 夜、村はすっかり暗くなった。


疲労困憊だというのに、遠くに来たという開放感と緊張からうまく眠れず、僕はフラフラと辺りを歩いていた。今にして思えば不用心極まりないが、僕はまだどこかピクニック気分を抜けないでいた。


 月も雲に隠れ、辺りは静寂に包まれている。

 だが、その中で一つだけ灯る光があった。


 それは診療所の小さな明かりだった。

 疲れ切った顔のあの女性が、書類に何かを記録していた。


 灯りが風に揺れ、彼女の影を壁に映す。

 その影は、思いのほか小さく見えた。


 僕はその灯りを、しばらく見つめていた。

 温かく、けれどどこか寂しく――確かにそこに「生きている人間」がいるのだと、胸に焼き付けるように。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る