第2話 道中と遭遇
「気をつけてね、諒」
母の声が、ドアの隙間から追いかけてくる。僕は振り返らず、手だけを軽く振った。朝焼けに染まる空の下、自転車のサドルに腰を下ろすと、思ったより冷たかった。これから五時間──自転車で山道を行く。
「……今の時代じゃ、これでも恵まれてる方か」
独りごちた声が、冷えた空気に溶けた。
五年前のウイルス災害以来、特区となった都心部から、周囲の地域への再進出を目指すのが僕の部署の役割だ。目的は多岐にわたる。生存者の有無、定住可能な土地の調査、抗体保有者の割合、インフラや資源の再利用性──その全てを、限られた人員と装備で洗い出さなければならない。
もっとも、"限られた人員"とはつまり、若い人間という意味だ。僕のように体力があり、感染歴もなく、万が一のために抗体ワクチンを接種済みの──言ってしまえば「替えのきく人間」たちが、文字通り“駒”として送り出される。誰も命の保証のない遠くへ汗水流して向かいたくない。巡り巡って責任は末端の若者に押しつけられるということだ。
山手線の駅跡を過ぎ、道はやがて緩やかな坂道に変わる。街路樹はそのまま生い茂り、歩道と車道の境も草に覆われて見えない。崩れかけたコンビニの屋根、錆びついたガードレール、傾いた看板には、今も「年末セール」の文字が残っていた。
人がいなくなって五年。自然は取り戻すのが早い。僕たちが作った都市は、あっという間に「誰のものでもない場所」へと姿を変えた。
ふいに、道路脇の影が動いた。小さな足音──草を踏む音。振り向くと、一匹のタヌキがこちらを見ていた。数秒のにらみ合いののち、奴は小さく鼻を鳴らして草むらへと消えた。
「……ほんとに、人間にしか感染しないんだよな」
通称「狂騒ウイルス」。人から人へ、接触と飛沫によってのみ感染する。発症後は神経症状と高熱を伴い、最終的には意識を失い凶暴化する──その状態を人は「狂騒化」と呼んでいた。
ウイルスが人間にしか感染しないと判明したのは、パンデミックから半年後のことだった。それまではすべてが手探りだった。ペットの犬猫すら捨てられ、動物園には火が放たれた。初動の混乱が、さらに被害を拡大させたのは言うまでもない。
そんな中、僕は助かった。中央省庁の研修中、たまたま都心にいて、初期封鎖区域の中に取り残されたことで、生き延びた。
「運が良かったんだよな。僕は──」
またひとりごちた声が、風に流れた。
山道に入り、街の名残がほとんどなくなる。見上げれば、高圧鉄塔の骨組みが錆びながらも立ち尽くしている。かつては光と音が満ちていた世界が、今はただ静寂と草のざわめきに支配されていた。
やがて、目的地が見えた。
「ここか……」
朽ちかけた集会所の看板が、文字の半分を欠いて揺れていた。民家の並ぶその一帯には、人の気配がなかった。網戸は破れ、ドアは外れ、郵便受けには五年前のまま新聞が詰まっている。
門の前に、奇妙な跡があった。泥の中に、指で引きずったような痕跡。周囲の壁には、赤黒い染みが固まっていた。
「誰かが、ここで……?」
背筋が冷える。姿はない。だが、痕跡だけが語っていた。この場所に、確かに“人間ではなくなった何か”が存在したということを。
僕は息を飲み、周囲を見回す。茂みが風で揺れた。どこかの窓ガラスが、風でカランと音を立てる。
──そのときだった。
集落のはずれ、古びた診療所の影。誰かが、そこに立っていた気がした。
だが次の瞬間には、もう何もなかった。
「……まさか、まだ誰かが……?」
自転車のハンドルを握る手に、知らず力が入っていた。
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