第3話

 紙漉阿原探偵事務所の扉をあけると、すぐにいつもとは違うことに気が付いた。部屋の奥が何やら騒がしい。


「私の探偵生命はいよいよ終わりだわ」

「そんなことないですよ。私も一緒に頼み込みます。そしたら少しぐらいは猶予をくれるはずです」

「いいえ。殺されるわ。カフェーで死ぬほど働かされて、政治家の上納品として死ぬほど奉仕して、きっと最後には大道具の柱の一部になるのよ……」

「そんな惨殺フルコースなわけありません。私の実家を何だと思ってるんですか」

「……何してんだ?」


 ローテーブルに載せた柳行李に背中で全体重をかける律世をアキが懸命に説得していた。満腹で悲鳴をあげる柳行李の隙間からは衣服がはみ出ている。

 事務所のなかはいつも以上に散らかっていた。あらゆる戸棚が開けられ、中途半端に物がはみ出ている。両袖机の棚はひっくり返され、書類や筆記具が机にうず高く散乱していた。


「どうしたんですか。そんなずぶ濡れで。学校はどうされたんですか」


 睫毛をぱちくりさせたアキと目が合う。濡れ鼠になった蘭子を見て慌てて手拭いを用意した。


「当ててあげましょうか」荷詰めを諦めた律世がドカッとカウチに座る。「黒川さんがいなくなったんでしょ。もしくは、周囲にメディウムであることが明かされてしまったか」

「……その両方だ」

「そう」


 口元を押えたアキとは対照的に、あっけらかんとして律世は返事をした。応答することすら面倒そうで、その態度には同情の欠片ひとつない。


「昨日、二人ともまるで戻る気配がなかったから何かあったのだろうと思っていたけれど」

「軍から手紙が届いたと言っていた。馨はきっと父を探しに軍に――」

「申し訳ないのだけれど、今はあなたの戯言を聞いている暇はないのよ。捜索の手助けをする気も毛頭ない。京香さんから与えられた調査期間は明後日まで。それでも新村三之助からは何も情報を得られなかった」

「馨も調査対象のはずだ」


 だから協力してくれるはず。彼女の捜索に。そんな他力本願な蘭子の甘えを、律世は一蹴する。


「それこそ何の情報もなかったわ。散々調べたけれど、彼女は巷で起きる記憶喪失はおろか、自分の父親が何者で何の研究に携わっていたのかすら知らなかった」

「でも軍に追われていた。絶対に何かあるはずだ」

「その何かは憶測に過ぎないわ。依頼者に憶測で説明する気?」


 余裕を欠いた律世が詰る。蘭子を気遣うように手を伸ばしたアキは、躊躇してそっと引っ込めた。


「ちょうどいいから伝えておくわ」机の隅に置かれていた茶封筒を手に取って、蘭子に差し出す。「本日をもって紙漉阿原探偵事務所は解散。蘭子さん、あなたはクビ。もう助手を勤めてもらわなくて結構よ」


 これはこれまでの給金ね、と付け加える。唐突な出来事に思考に靄がかかった蘭子は、それを受け取るという思考すら思いつかなかった。呆れたような短いため息を吐いた律世が、茶封筒を蘭子の懐に差し入れる。


「老婆心で言っておくわ。相手は軍よ。黒川さんのことはきっぱり諦めるのね。別に、彼女が殺されると決まったわけじゃない」


 そんな呑気に言えないことは律世も知っているはずだった。馨は眠らされ攫われそうになったのだ。それを救ったのは他でもない。蘭子は崩れそうになる脚に必死に力を籠める。零れ落ちそうになった涙を振り払う。


「私は、馨を助けに行く。誰の助けがなくても」

「不死身であることを過信しているの? 教えたはずよ――」

「そんなんじゃねぇ――ッ!」


 そんなんじゃない。そんなんじゃないんだ。心臓が裂けてしまう。もう裂けているのかもしれない。蘭子は曖昧になったそんな苦痛を胸に押し込める。


 ――これは、人生でたった一度だけの、初めての恋なんだ。


「命を大事にしてほしいのよ……一時とはいえ、助手が死ぬのは、夢見が悪いわ」


 そそくさと背を向けた律世は、雇用主の責任としてよ、と言い訳めいて口にした。翻した断髪の隙間からちらりと見えた耳が色づいて見えたのは気のせいだろう。


「運命なんだ……。同じ赤い糸で結ばれた運命……」


 ただ熱に浮かされたみたいに蘭子は呟いた。助けに行くなんて格好をつけて、一人で馨を助けることができないことは痛いほど分かっている。律世を何とか引き留めるためようと馬鹿みたいな理屈が口を衝いて出た。


「同じ赤い糸……そう言ったかしら?」


 懐にひっそり忍ばせた馨からの手紙が木漏れ日のようにじんわりと熱くなる。


「馨はA型。私も同じ血液型だ。これは、まさに運命だ」

「運命ではないわ」


 あくまで律世は冷静だった。帝都の四割はA型だそうよ、と残酷に付け加える。京香ちゃんもA型です、とアキもささやかに追撃した。


「と、そんなことはどうでもいいのよ」バッと勢いよく振り返る。「蘭子さん、以前に新村三之助の家を訪れた際、彼にカレル瓶を盗まれたせいで新調する羽目になったと後で言っていたわよね」

「あぁ……。もっとも、本人は自分で紛失したと思っていたようだけどな」

「ということは、同じ血液型……」


 顎先に手を置いた律世が独り言のように呟いた。


「新調する際、黒川さんがどこのコーディネーターに相談を持ち掛けたか知っていたりするかしら?」

「知っているのは一人だけだ。働いてたカフェーに馨と来たんだ」


 馨に近づく馴れ馴れしい営業スマイル。視線を上げた蘭子は記憶を遡る。そういえば、と受け取った名刺をまだ懐に入れていたことを思い出した。

 出した名刺をひったくった律世は、その紙片を握りしめたまま慌ただしく羽織を着た。


「すぐに出る。アキ、申し訳ないけれど、私が帰って来るまでに書生風の化け込み衣装を用意しておいてちょうだい」


 背をビクッと伸ばしたアキは、一拍遅れてから口元を綻ばせて返事をした。


「カミスキさん、どうする気だ⁉」


 出ていこうとする律世の肩を掴むが、煩わしいのか振り返りすらしない。ただそのこの声は興奮で弾んでいた。


「どうって、私と蘭子さんの望むとおりよ。京香さんの依頼を完遂して、黒川さんをついでに助ける」

「私は何を手伝えばいい?」

「手伝いはいらないわ。これまで通りよ。新規依頼者の相談を聞いてあげてちょうだい」


 捨て台詞もように言い残して、律世は事務所から姿を消した。アキの方が指示されたどりすでに慌ただしくしている。

 どうしたらいいか分からず、蘭子は無力感を抱きながら立ち竦む。ただ心臓だけが不気味なほどに脈打っていた。

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