第2話
教室の前のドアがガラリと勢い良く開いた。あまりに勢いがついていたので、教室にいた生徒は一斉に目を向けた。まだ午後の始業のチャイムが鳴るにはまだ時間がある。教師かと思い、瑠璃子から視線をずらした蘭子は、驚きのあまり反射的に椅子ごと後ろに下がった。
「ごきげんよう。勤勉なる海老茶式部のみなさん」
静かで慇懃な物言いだが皮肉には事欠かない。――菅野川。その後にぴったりと棲月も続いて入ってきた。闖入者に続いて、加齢で垂れた頬肉を真っ青にした女性教師がすっ飛んできた。
「あなたたち、これは何事ですか!」
「突然押しかけるような真似をして申し訳ありません。私は陸軍少尉の菅野川というものです。こちらは部下の棲月上等兵。実は折り入って確認したいことがあり参りました。来校手続きを省略しましたこと、どうかご容赦ください」
謝罪を口にしつつも、教壇に立つ菅野川は女学生の方しか見ていなかった。名乗ったとおり軍服姿の二人は小銃を手にし、腰には銃剣を下げている。
「やかましくしている暇があるのなら責任者を呼んできてもらえますか。女学生のみなさんはどうかご自身の席にお座りください」
騒ぎ立てていた女教師はぴたりと黙り、言われなく今から来られます、と苦々し気に吐き捨てた。生徒たちは突然のことに狼狽えながらも、自身の席に戻っていく。女教師の宣言どおり、すぐにドタドタと校長や教頭を含めた職員数名が教室に雪崩れ込んできたときには、生徒全員が席に座り直していた。
場は整ったとばかりに菅野川が少し芝居がかって咳払いをする。
「お休みのところ申し訳ありません。実はとある親御さんから通報がありまして。どうやらこの生徒さんの中にメディウムがいるというのです。聞いてはおりませんか」
白々しく菅野川は教師陣に話を振るが、誰もが顔を見合わせるばかりだった。
「危険性は排除しなければなりますまい。それに差し出がましいようですが、永遠の罹患者がいるなど由緒正しき本校の沽券に関わる話では?」
教室内は明らかに菅野川の独壇場となっていた。後悔するぞ、とほざいていた意味を理解した蘭子は奥歯に力が入る。これは警告だ。馨を探すな、これ以上、関わるな。そういう意味だ。
抑圧された空気に全員が静まり返るなかで、静寂を破るかのようにガタッと椅子を引く音が響いた。
「言いがかりはよしていただけますか」
その声の方を生徒の誰もが振り向く。生徒のなかでたった一人だけが席を立っていた。
「あなたは?」
「藤墳瑠璃子と申します。この学級の級長をしています。失礼ですが、この場において今もっとも本学の品位を貶めているのがあなた方である自覚がないようですね。私たちは無根拠に疑われるだけで評判を落としてしまいます。臣民の信頼を一心に受ける皇軍の方々ともなれば猶更です」
「疑い、ですか」菅野川が一瞬だけ蘭子に視線を合わせ、ぱっと対峙する瑠璃子に戻す。「つまり瑠璃子女史はこの教室にはメディウムは存在しないとおっしゃるわけですか」
菅野川はあくまで柔らかく尋ねたがその眼光は氷河のようだった。それでも瑠璃子は毅然として怯るまない。
「由緒正しき本学に、そのような不埒な者がいるはずありません。どうかお引き取り願います」
喉を鳴らすようにクツリと笑った菅野川が教壇を降りる。机の間を縫って瑠璃子の前に立った。
「あなたのお兄さんのことはよく知っています。先の大戦時、
菅野川が銃把を握る三八歩兵銃の銃口は、あろうことか瑠璃子に向けられた。
「この状況にあっては愚行としか言えません。真っ先に疑われるとお気づきになりませんでしたか」
ヒュッと瑠璃子が短く息を飲み込んだ。小さい身体に押し込んだ怯懦に足が震えている。
「菅野川――――ッ!」
絶叫して掴みかかろうとした蘭子と、菅野川がそのまま水平に銃口を向けたのは、ほぼ同時だった。蘭子の口腔に冷たい銃口が乱暴に押し込まれる。
発火炎は見えなかった。浅草オペラの一年分の公演を口のなかで一度に開催したような三十八年式実包の味わいも蘭子にはくぐもって聞こえた。放たれた銃弾は、無遠慮に喉を犯し脊髄を粉々にしてから頸部へと抜ける。頸動脈から噴き出したぬるぬると暖かい血が床と机と傍にいた不運な生徒の顔面を汚した。
意識を手放すよりも先にズタズタになった血管と千切れた肉片を完治させた蘭子は、後ろに倒れそうになった身体を踏みとどまらせる。溺死しないよう喀血を吐き捨てると、耳鳴りの後で遠のいていた外の雨音が徐々に鼓膜へと戻って来る。警告なしに発砲するにしても、無理やり口に、というのはマナーがなってない。
そんな呑気なことを思って死の淵から蘇ると、まるで指し示していたかのように、甲高い悲鳴を合図に生徒と教師の大半が教室から逃げ出していった。残ったのは、恐怖で身体が竦んでいるか、吐き気を催して身動きが取れない人たちだった。
阿鼻叫喚の教室で、校長が何やら喚いていたが、そんな抗議を聞いている者は誰もいなかった。
「庇ってくれてありがとな。でも、ごめん……私なんだ」
もはや隠すことはできない。蘭子は友人の勇気を心の底から尊敬して、謝罪した。菅野川が現れたと同時にすぐ名乗り出ればよかった、と蘭子は後悔する。この期に及んでなお、同級生から白い眼を向けられるのが怖かった。
「いつも味方でいてくれたこと、感謝してるぜ」
「……か、隠して……」
震える唇で瑠璃子は輪郭が曖昧な言葉を紡ぐ。色を失ったその瞳は、蘭子もといメディウムへの不信と恐怖で揺れている。少なくとも友人を見る目ではなかった。
「わ、私は……あなたを、ゆ、許せない……」
「そう言うとは、思ってた」
だから、瑠璃子と会えるのは今日が最後だ。蘭子は数歩下がって、助走距離を取る。
菅野川と棲月は未だ銃口を蘭子に向け、その指は引き金に掛かったままだが、次弾を放つことはなかった。本来の目的はすでに達成したからなのだろう。蘭子の殺害を目的であるのなら、メディウムを相手に実弾など使うはずがない。公然とした場所にわざわざ現れる必要もない。彼らの目的は、蘭子がメディウムであることを露呈させることなのだ。だからこそ、それが警告となる。
蘭子は、締め切られていた窓に向かって走った。衝突とともに窓ガラスが割れ破片が露出した皮膚に刺さる。二階から飛び出した蘭子の身体はどこかの腱と骨が折れる鈍い音とともに花壇へと転がった。逃げ道としては最短距離。立ち上がるときには、すでにすべての怪我は治癒されている。
そのまま走って校庭を抜けた蘭子は市街の方へと向かった。警告が目的なら彼らが執拗に追ってくることもないだろう。
蘭子は走りながら考える。学校へは二度と戻れない。家族にだって連絡がいくだろう。もとより家に自分の居場所なんてない。あと残るのは――。
残った唯一の拠り所に辟易しつつも、蘭子は浅草行きの市電に乗ろうと停車場へ向かう。傷つくはずのない身体が降り続く雨に削り取られていっているような気がした。
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