第一章 メディウム
第1話
「何しているの。早く来なさい」
母親の鋭い声に呼ばれた蘭子は、料亭の縁側をわざとゆっくりと歩いた。振り返る母親の化粧臭さが嫌と言うほど鼻につく。自分も同じようなものかと思うと、余計に気が滅入ってくる。
蘭子がまだ学習院附属幼稚園に通い始めた頃、貴族院議員だった祖父が亡くなった。そこからの東雲家は坂を転げ落ちるように没落していった。武家華族に比べ、公家華族である東雲家の財産といえば僅かながらの俸禄と公債ぐらいのもので、華々しく悠々自適な生活など夢物語でしかなかった。
そんな東雲家の状況を打開する〝駒〟として、蘭子はここにいた。
「ぐずぐずしてないで急ぎなさい。田村様はもう待っていらっしゃるのよ」
障子戸の前に立つと、膝をついた母親が戸を開けて頭を下げる。座敷には中年の男が座っていた。身なりはいいが、帯に載った醜い贅肉からは油と金が混ざった腐臭がする。こうして会うのは二度目。その男――田村永三は、家族が宛がった蘭子の縁談の相手だった。
「ではお二人でごゆっくり」
人当たりのいい声音で母親が言ったかと思うと、無口なままでいる蘭子に釘を刺すような視線を送った。家の名を汚すな、そういう意味だ。東雲家は張りぼてだ。華族の家に生まれた蘭子は、物心ついた時から、母親が娘の生涯よりも家の格を大事にしていることに気がついていた。
「取り敢えず、料理は来ている。食べようじゃないか」
永三が箸を取る。料理はすっかり冷たくなっていた。蘭子は一言も発さないまま料理に口をつけようともしない。永三は見かねたように口を開いた。
「君の境遇は察しているつもりだよ。製粉会社の父は日露戦争の戦争特需で儲けた。しかしそれはどこまでいってもただの金持ちに過ぎない。反対に君たち貧困華族は、金はないが格はある。僕たちはお互いにお互いの欲しいものを持っているわけだ。今時そういう縁談は珍しくないとも聞く。君にとってみれば体のいい身売りに思えるかもしれないがね」
箸を置いた永三は、ゆっくりとした動作で蘭子の隣に腰を下ろした。
「だが俺はそうは思わない。客観的に見ればこの出会いはそう見えるかもしれないが、それが愛のある家庭を気づけない理由にはならない」
「糞野郎が。寄ってくンじゃねぇ」
せめてもの抵抗で蘭子は毒づく。永三の女遊びの派手さはすでに噂で聞いていた。息がかかるくらいの距離に顔を近づけた永三が身を摺り寄せる。振り解こうとするが、その腕にはぐっと力が入っていた。
「テメェの女房は、テメェが殺したんだろ……」
新聞に載っていたのだ。誤って毒を飲んだ妻が自宅で死亡。結果的には事故として片付いていた。蘭子は、せめてもの虚勢がバレてしまいそうで、じっと見つめてくる永三に視線を合わせられない。
「悲しい事故だ。私に処方されていた薬を誤って飲んでしまったのだ」
声だけは妻を忍ぶ心優しい夫のそれだった。悲劇の自分に陶酔した指先が衿の隙間に入ってくる。
力で押さえつけられて身体が動かない。蘭子は、ただ不思議だと思った。もっと抵抗すべきはずなのに、湧き上がる恐怖心がそれを拒む。永三を恐れているわけじゃない。恐怖の根源はまた別にある。両親の許にいる自分は、無力で何の抵抗もできない人形だった。
節くれだった永三の手が腿を撫で、裾から入り込んでくる。抵抗も口答えもしないことを了承と受け取ったのだろう。蘭子の股の間から見上げるようにして下卑た視線を送った。
運命なんて、この程度だ。
だから、ただされるがままにしておけばいい。
口を噤んで、身体から力を抜いて、ただ穢れてしまえばいい。
幸福なことに、命は永遠ではないのだから。
「何だ君は」
そんな声が遠くからした。畳に押し倒されていた蘭子は、遠くでドタドタと床が揺れる音を聞く。初めは鼓動かと思ったが、徐々に大きくなる音がそれを否定する。蘭子の心臓はゆっくりと冷たく鼓動している。二人のいる部屋には永三の荒い息遣いしかない。慌ただしい足音と喧騒が段々とこちらに近づいてきていた。
障子戸が、勢いよく開かれる。
「田村永三はいるかしら」
縁側から続く庭園を背景に立っていたのは、胡散臭さ漂う女性だった。黒い中折れ帽から肩へと流れる髪は喪に伏すような断髪で、帽子と同色のマリンパンツをハーネスベルトで吊るしている。背丈もそこそこあって一瞬男かと勘違いしたが、白いブラウスが象るラインは女性そのもの。着こなす羽織には、線の細い縞模様に薊の葉が添えられている。一見するだけで、胸騒ぎのするような奇特さのある人物だった。
「如何にも。俺のことだ」
バツの悪そうに永三が衣服を直す。蘭子の上から降りると、両家の親族が部屋に雪崩込んでくる。永三が咆えた。
「勝手に現れて、どういう領分なんだ貴様は」
「名前をわざわざ明かすような身分ではないけれど」
面倒そうにため息をついた女は、怒気を滲ませる声に怯みもせず前に躍り出る。
「探偵の
名刺なんて誰も受け取らず、田村家親族は一斉に東雲家を見た。結婚調査を入れられたと思ったのだろう。だが蘭子には考えられない話だった。ただでさえ金のない両親が探偵を雇ってまで娘の将来を案じているとは思えない。
「観客が集まったところで、そろそろいいかしら? 私も仕事で来ているのよ」
「こっちは貴様なんかに用はない。お引き取り願おう」
「そう言われても引けないのが探偵の辛いところね。もう依頼料はもらっているもの」
「俺にはやましいことなど一つもない」
「本心で言っているのかしら」
律世の瞳がぐいっと永三の眼を覗き込む。蘭子は思わず息を飲んだ。彼女の瞳にたじろがない人なんていない。そう思わせるほど大きく深い瞳だった。
「本心だ」
断言する永三に律世は憎たらしささえ感じるほどの満足げな表情で頷いた。
「憶えていないのであれば、その自信も頷けるわね」
ポケットに手を入れた律世が出したのは、十名ほどの名前が書かれた紙切れだった。田村永三の名前も確かにそこに記されている。
「二か月前、このリストに書かれた人間がそれぞれ任意の期間、記憶を失った。私はそれがどこで、どのような方法で行われたのかを調べているの。何か思い出さなくて?」
「出鱈目だ。そんな方法あるわけない」
流石の蘭子も鼻で笑った永三に同意した。記憶を消す方法、そんな便利なものはカレル瓶が一部普及する帝都でも聞いたことがない。そもそもカレル瓶を使ったとしても不可能だ。カレル瓶は、脳の補助装置に過ぎない。脳よりもその体積は小さく、使用者の脳に自発的に干渉できない。使う人間の脳に従属するただの人工物だ。
「確かに俺には記憶の欠落がある。だがそれは妻を失ったことによる健忘症だ。医者にそう言われた」
「ところで」律世は永三の話を遮って思い出したかのように口にする。「梅毒はそろそろ治りそうかしら?」
永三はさっと手を後ろに隠した。梅毒に感染すると手や足に赤い発疹ができるからだ。
「田村家当主田村栄三、その妻の田村千代子が亡くなったのは去年の冬の初め頃だった。死因は夫が使用していた梅毒用の薬、それに含まれる塩化第二水銀の誤飲だった」
「何を得意げに。新聞にも載ったのだ。誰だって知っている」
「でももしもその梅毒が、毒物を含む薬を貰うために意図的に感染していたとしたら、どうかしら?」
「言いがかりもいい加減にしろ。何を根拠にそんなことを」
胸ポケットから
「あなたは毒薬として効果的かつ所持に正当性がある毒物を探した。女遊びの好きなあなたが梅毒に罹っても世間は誰も疑わない。誤飲だったのかどうか、その証拠は何もないわ。でも新聞記者に化け込んで訊いて回ったの。あなたがよく足を運ぶ神楽坂でね。置屋の主人にした質問はシンプル。三月ほど前に梅毒に感染している女性を宛がうよう頼まれたりはしなかったかしら? それだけ。そして見つけた。それも一軒だけじゃない。わざわざ
「奴らの言うことが信用できるものか。ただの物好きな客の可能性だってある。やはり俺である証拠はない」
「ええ。これは単なる偶然。もはや愛してもいない妻を亡くした夫、梅毒に罹った私娼を買う物好きな客、偶然にも同時期にそういう人がいたとも考えられる」
「だから出鱈目だと言っているだろッ。お前も偶然だと認めている。そんなのは推理とは言えないッ」
「おっしゃる通り」
声を荒げた永三の言葉をあっさりと認めた律世は、薄く開けた唇の隙間から紫煙を吐き出した。食って掛かる永三の顔面に吹きかかる。
「私がしたのは散々歩いて人から聞いて、台帳をひっくり返して記憶と記録の束を漁っただけよ。そうやって集めた事実を継ぎ接ぎして結論を出したのは、あなたを調査するよう頼んだ依頼者。真実なんて私の知ったことではないわ。ただ分かっていることは、私が集めた事実を持って依頼者が警察に相談済みだということ。じきにあなたの許にも警察が来るんじゃないかしらね」
律世が言い切る頃には、永三の顔は真っ青になって両肩はわなわなと震えていた。
開け放たれたままの障子を境に、春の陽気が漂う長閑な中庭と、両家親族が集まった部屋は隔絶されてた。息が詰まるほどの張り詰めた空気の中、決着したと蘭子が思ったそのとき、永三が膳に載った箸を荒っぽく鷲掴みにする。
その動作と、鬨の声を上げた永三が律世に掴みかかったのは一瞬の出来事で、続けざまに起こった光景に誰もが硬直した。
一粒の葡萄にでも突き立てたみたいに、律世の右眼に箸が突き刺さっていた。
「おやおや」
青空でも仰いで日向ぼっこでもしているみたいな呑気さだった。律世が周囲の反応を窺う度、突き刺さった箸が左右に振れる。突き刺した永三も流石にこの反応には後ずさった。
「あなたは用意周到でずる賢くて知恵もある。でも、
そう言って律世は眼球に刺さったままの箸に手を掛けて、躊躇することなくそのまま引き抜いた。痛みではなく、物理的な衝撃で零れた涙を拭う。その光景には蘭子も悲鳴を上げそうになったが、もっとあり得ない光景を目にして思わず声も引っ込んだ。
箸は確かに瞳孔を貫通したはずだった。なのに、その眼球には傷一つ無い。
「お前、メディウムか」
憎々し気に吐き捨てると、永三は下卑た笑みで口許を釣り上げる。二人きりの空間で蘭子に向けられていた薄気味の悪い表情と同じだった。
「女のメディウムは情婦と相場が決まっている。間違いない。
情婦というのは謂れもない言いがかりだったが、世間ではそういう見方が一般的だった。そもそもメディウムは圧倒的に男性が多い。まだ法律で禁止されていなかった頃、一部で出兵する兵士に施されたのだ。
「だったらなんだって言うの?」
律世が手にしたままだった箸を放り投げる。それは足許に転がり、永三はまた一歩引き下がる。彼女の粘液で箸は濡れていた。
「俺は捕まるのか……?」
永三はか細く呟いた。突然訪れた幸運に蘭子の胸はすっと軽くなる。警察にでも捕まれば結婚の話は破談で終わる。だが蘭子の方をちらりと見た律世は、無慈悲にそれを否定する。
「私の目的は初めに言ったはずよ。無能な警察官どもに引き渡すのが目的じゃないわ。そんなこと心底どうでもいい」
永三は安堵したようだった。箸を刺したことも律世の眼球がすでに治癒されてしまった以上、傷害事件になるはずもない。
「記憶を消した方法を教えなさい。それがどこで行われたのかも」
「……わからない。健忘症だって言われたんだ。いつからそうかなんて憶えてない」
「この期に及んで隠す気かしら?」
頭を抱えて記憶を捻り出そうとする永三。うなされる姿を眺めていた律世は、がっくりと項垂れてため息を吐いた。
「本当に思い出せないのね?」
「本当だ。信じてくれ」
祈るように手を合わせて頭を下げる。幼稚な万能感に塗れた永三の矜持は、もはや欠片も残ってはいなかった。
「そう。邪魔したわね」
大々的な登場に比べて、その去り際はあっさりしていた。黒いネクタイを緩めボタンを胸元まで開けた律世は、聞き出したかったこと以外は心底興味がない、とでも言うように部屋から出ていった。
その場にいる誰もが嵐のように過ぎ去っていた闖入者に唖然としていた。今更仕切り直しというわけにもいかない。これはチャンスだ。そう思うと蘭子の身体は勝手に動き出した。縁側を駆けて、律世の後を追う。お礼ぐらいは言わせてほしい。その目的がどうであれ、永三の毒牙から救ってくれたのは、紛れもなく彼女なのだ。
「紙漉阿原さん!」
玄関口の引き戸に手を掛けた律世に、蘭子は声を張った。彼女が振り返る。中折れ帽をそっと頭に載せる。
「あなたはさっきの……」
「あのっ、なんて言うか、本当にありがとうございました」
一瞬きょとんとした顔になった律世は、ふっと表情を綻ばせる。
「紙漉阿原なんて長くて呼びづらいでしょ。カミスキでいいわ」
「カミスキさん……」
蘭子は見惚れながら言い直す。律世はくすっと笑った。
「あれくらいは慣れっこよ。探偵として踏んだ場数を舐めないでほしいわ」
戸を開け放った律世は、ひらひらと手を振って昼下がりの細い横町に出て行った。
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