第2話

「お待たせいたしました」


 料理をテーブルに置いた蘭子が踵を返したその瞬間、耳を圧迫するような悲鳴が店の隅から聞こえた。ホールが静まり返る。店内の誰もがその悲鳴の方へ顔を向けていた。

 悲鳴を上げたのは、蘭子と同じここで働く女給だった。瑪瑙の髪飾りで留めた古風な銀杏返しの背後に長身だが細身の男が立っている。身体を密着させる姿から見て、時々現れる変態の酔客かと蘭子は一瞬思った。だが女給の首許で鈍色に光った匕首を見て、ただ事でないことを察する。


「オイッ、金だ! 店の金をよこせ!」


 男の腕にさらに力が入る。女給は切っ先から逃げるように白い喉を仰け反らした。誰もがその場を動けないでいた。蘭子は咄嗟に万太郎を呼ぼうとしたが、声はうまく音にならずに喉の奥が乾いて擦れただけだった。


「ただでさえ立ち行かない俺の店に厄介ごとを持ち込んでくンじゃねぇ!」


 悲痛な雄叫びが聞こえた瞬間、厨房から飛び出してくる影があった。蘭子は思わず仰け反る。横をすり抜けていった万太郎が、フライパンを振り上げて人質をとる男へと突っ込んでいく。

 男気あるじゃん、と思ったのも束の間、勢いのまま男に軽くいなされた万太郎の寸胴な身体がホールの床に転がった。蘭子は、厨房の冷蔵庫から転げ落ちたボンレスハムを連想した。


「ねぇ、ちょっと」


 どこからともなく聞こえ囁き声にはっとした蘭子は、視線だけで左右を見回して辺りを確認する。幻聴だろうか、と思って何気なく足許を見ると、足許で馨が四つん這いになっていた。思わず蘭子も小声になる。


「ちょっ、何やってんだ?」

「この状況を何とかしないと。まだシトロンしか飲んでいないの」

「それは大変だ……って、流石にそんな場合じゃねぇだろ」

「私にとっては重要なの。だからこれ、ちょっと持っていて」


 馨は、ランタンを持つようにカレル瓶を差し出した。側面に細く彫られたスリットから培養液に浮かぶ被造物が微かに見えた。瓶の上部から伸びたケーブルは馨のはだけた胸元へと繋がっていた。彼女の心臓から供給された血液から酸素を摂取したカレル瓶が、スリットの奥で泡を出すのが見えた。


「そこの悪い人」袖をたすき掛けにした馨は、壁に立てかけられていた長柄箒を中段に構える。「私がとっ捕まえてあげるわ」


 テーブルを踏み台にして、男への最短距離で飛び掛かる。男は一瞬狼狽えた。長柄箒を振り上げた馨は、男が反応するよりも早く、その顔面に振りかざした。

 バキッと箒の柄が響く。箒はくの字に折れて、男はよろめいて料理の広がったテーブルに後ろ向きで倒れた。

 落ちたガラスのコップや皿が床で割れる音が響くと、辺りは静かになる。その瞬間、ホールにどっと歓声が沸いた。

 各々が激励するなか、馨は小さく会釈をして照れくさそうにしながらも、冷静に倒れた男の腕と足を縛り付ける。何でもないことのようにそれを終えると、床に伸びた管を腕に取って巻きつけるようにしながら管を辿って蘭子の許へと帰ってきた。


「ありがとう。持っていてくれて」


 馨の胸元は乱れていて、今にも襦袢から素肌が見えてしまいそうだった。カレル瓶から伸びる管は彼女の左胸の下に開けられた培養器孔ソケット、その奥にある心臓へと繋がっている。


「習わされていた薙刀を使う機会があってよかったわ」

「さっさと隠せ。見えてるから」

「あら、蘭子さんは女の子なんだから恥ずかしがらなくていいのに」


 意地の悪い視線でそう言われた蘭子は、自分が慌てて顔を逸らしていることに気が付いた。馨の頬はうっすら紅潮している。蘭子は手早くはだけた胸元を揃え直した。


「そういう問題じゃない。周りが見てんだろうが」

「気にしないわ。だって今すっごくいい気分なの」一度直した前襟の奥に馨が蘭子の手を引き込む。「ほら。蘭子さんが抜いて」


 要望通りに心臓へと繋がる培養器端子プラグを引き抜くと、馨は小さく声を上げた。蘭子は再び襟を直す。培養器端子の先から鮮血が一滴床へ落ちた。


「気分はどうだ? 気持ち悪かったりしねぇか?」

「全然よ。何も変わらない――」


 言いさした馨の顔色が急激に雨雲色になる。カレル瓶は、使用している間は過度な緊張や恐怖心が抑制され、運動能力も増す。薙刀の一撃で男を仕留めたのがいい例だ。狙うべき急所に狙った通りに身体が動くようカレル瓶が神経や筋肉への信号を補正したのだ。

 カレル瓶を外せば、それまで抑制されていたすべてが心身への負債となって、


「ぅおぇぇぇえっっっ――――――――――――――――――」


 咄嗟に掬おうとした蘭子の右手に温かいそれは広がった。


「言わんこっちゃねぇ。ほら行くぞ」


 涙を浮かべてえずく馨の背に、汚れていない方の手をやって蘭子はトイレへと連れていく。

 便座に顔を入れる勢いで嘔吐する馨の長い髪を後ろで束ねて持ちながら、蘭子は苦しそうなその横顔をじっと見ていた。額の冷や汗に髪が貼りついている。悪漢に向かう恐怖心をこれだけ抑えて、立ち向かったのだ。苦しそうに嘔吐する彼女は、見惚れてしまうほど綺麗だった。


「やっぱ諦めらんねぇな」


 散々吐いて胃液も出なくなった後、謝りながら手を洗う馨を見ていたら、蘭子はうっかり心の声を漏らしていた。


「諦められないって、何を?」

「別になんでもねぇよ」


 諦めるわけにはいかない。

 彼女を好きでいることを。

 そう自覚したはずなのに、臆病者の自分がどこからともなく顔を出してきて、言葉は唇を焦がして口内に留まった。今はまだ言えない。ここはトイレで、しかも散々吐いた後でムードの欠片もない。そんな言い訳で自分を納得させた。


「きれいさっぱり吐き出したら、またお腹が空いてきちゃったわ」


 尽きない馨の食欲に蘭子は驚きながらも、二人はホールへと戻る。


「安心しろ。店長を縛り上げてでもお代はタダにしてやるよ」 

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