第2話

「この顔見てわかんねぇのかよ」


 蘭子は低血圧気味な気のない返事で応える。藤墳瑠璃子ふじつかるりこがおさげを揺らしながら寄ってきたのは、一日の授業が終わったすぐ後だった。瑠璃子は蘭子の机に頬杖をつく。彼女は級長を務めるほどの真面目な生徒だが、この手の話題には興味深々な乙女だ。その瞳は、乙女チックなきらきらを飛び越えて爛々と輝いていた。


「糞だぜ糞。とんだ馬糞野郎だったよ」

「それって具体的にどんな人だったの?」

「んー、人殺しとか」

「嘘おっしゃい」


 瑠璃子が額をぺしりと叩く。冗談だと受け取ったのだろう。蘭子も詳しく説明する気は起きなかった。


「あなたっていつもそうなんだから。このままじゃ卒業しちゃうわよ。一族の恥だって笑われてもいいの?」

「上等だぜ」


 顔が良くて器量もいい。そういう同級生は卒業をする前に婚約者を見つけて学校を去っていく。実際、ひとつ上の四年生はすでに入学当初の半分ほどしか残っていない。その過程が将来の安寧の第一歩であることは、蘭子も上辺では理解していた。


「まあ、と言っても」瑠璃子が口元を隠す。オフレコの意味だ。「黒川さんとの恋路は私も応援しているけどね」

「えっ、えっと、な、なんのこと……?」


 咄嗟に目をそらした蘭子の瞳を追うように瑠璃子が首を傾ける。そのことついては誰にも話していなかったし、話す気もない。


「何よ、今更とぼける気?」

「とぼけてなんかねぇけど……」


 瑠璃子は大きくため息を吐く。逃げ場を亡くした蘭子は両手で顔を隠して俯いた。触れた顔は熱でもあるかのように熱い。早く許に戻れと念じても、馨のことが頭に浮かんで熱が増していくだけだった。


「それで、どこまで進んだの? もう契りは交わした?」

「……契りってなんだよ?」


 指の隙間から上目遣いで見ると、瑠璃子は口を半開きにしていた。彼女には隠し切れない。だったら、と教えを乞うよう蘭子は訊いた。結婚するでもあるまいし、契なんて言い方は聞いたことがない。


「まだその段階とは。お姉さん、あなたの将来が心配です」

「そういうのいらねぇから」同級生だろうが。

「エスで契っていったら一つしかないでしょ」


 瑠璃子は一息ついて言葉を溜める。


「同衾! よ」

「ばっ、馬鹿!」


 あまりにもはっきりと輝かしく、特段はばかることなく言ったから、蘭子は思わず瑠璃子の口を塞いだ。

 エスとはつまり姉妹Sisterの頭文字で、学友同士の友好を示す隠語だ。同級生同士や上級生と下級生など学年は問わない。そういう関係にある生徒同士は校内ではさほど珍しくもないので蘭子も知っていた。ただそれは、もともと仲のよかった者同士がもうちょっと親密になる程度のものだと思っていた。


「エスって言ったらもっとこう心の中で繋がるというか、例えば手紙を書いたり、誰にもいえない秘密を共有したり……そういうもんだろ?」

「もごっ、もごもごご……」

「あっ、ごめん」


 塞いでいた手をどける。呼吸が止まっていた瑠璃子の顔は風船のように赤く膨らんでいた。せき込むような呼吸の後にゆっくりと息を整える。


「甘い、甘すぎます。お姉さんにどれだけ心配をかけさせる気ですか」

「だからそういうのいらねぇから」てか誰目線なんだよ、それ。……まあ、お姉さんか。

「いいえ。色気ムンムンのお姉さんです」

「心読めんのか⁉」

「そんなわけないでしょ。蘭子のことだからそうツッコむと思ってたの」

「空恐ろしい……」


 瑠璃子との付き合いは言うほど長くない。出会ったのは学院に入ってからだ。彼女は山梨県の生まれで、実家からは通えないため寄宿舎で暮らしている。華族ではなかったが、祖父は県内で〝鉄道王〟と呼ばれている資産家。県内では知らない人のいない高額納税者だった。同じ教室で三年目。見透かされてしまうのは、彼女の慧眼故だろう。


「ちなみにイマジナリーお姉さんの出自は、フランス留学から帰ってきたばかりで通訳の仕事をしてるモダンガールね」

「そこの詳細いらねぇよ」

「って、そんなくだらないことはいいから。同衾、まずは同衾よ。それがなきゃ話はなにも始まらない」

「だから繰り返すな」


 声を潜めて戒めるが、選挙演説のように高らかに宣言する瑠璃子はもはや止めようがなかった。


「肉体的な触れ合い、物理的な交歓がなきゃ心っていうのは離れていくものなの」

 瑠璃子の恋愛遍歴は知らないが、言葉には妙な説得力があった。実際、瑠璃子の言うことは普段でも理路整然としているし、理由を尋ねると理論的な説明もしてくれる。学院での成績も上位の方だ。


「そうだとしても、私は……」


 そういう段階があることを蘭子は知らないわけではない。むしろ同級生よりも遥かに知識だけでなく、経験的に分かっていた。それでも、どうしようもなく抱えた恋は、心臓の奥深くで真っ白なまま揺れ動いていた。


「女学生ながら酸いも甘いも嚙み分けて、誰よりも経験豊富なあなたが初恋とはね。それも恋にこんなにも臆病だなんて。そういうあなただから応援したくなるんだよ」


 一生、あなたの味方だからね。瑠璃子にそう付け加えられると、蘭子はすべて頼り切ってしまいたくなった。頬を染める蘭子を、慈しむような優しいほほ笑みが包む。イマジナリーな似非お姉さんではない、本当のお姉さんの顔を瑠璃子はしていた。


「でも、その気持ちは伝えるべきだと思う。愛しの黒川さんに」

「手紙は出した。返事も受け取った。でも返事は当たり障りがなかったっていうか、お誘いはしたんだけど丁寧に断られた」

「第一歩としては上場だと思うよ。黒川さんは人気だし、今まで誰かとエスだったって話も聞いたことがない。難易度は高いと思うけど、でも諦める必要はないと思う」

「当然だ。そんなんで諦めるほど中途半端なつもりはねぇ、とは思ってる……」

「よく言った。その意気ね。面構えもいい」


 蘭子の顎先を片手で掴んで顔を左右に向けさせる。


「手紙は効果が薄かった。なら今度は別の作戦に移らなくちゃ。手堅く外堀から埋めていきましょう」

「どうする気だ?」同衾とか、また突拍子もないことは言うなよ。

「探偵を使って弱みを見つけ出すの。弱点が分かればこっちのものよ」

「この外道!」

「ていうのは冗談ね」


 どうどう、と瑠璃子は両手でジェスチャーする。教室に残っていた数人がこっちに視線を向けていた。


「でも最近はそういうのもあるみたいだから。その魂胆もだけど、探偵っていうのがほんと薄気味悪い」

「まあ、そうとも限らないとは思うけどな」


 一応は同調しておく。紙漉阿原律世を名乗る探偵の印象は決して薄気味の悪いものではなかったけど、世間的に考えれば探偵の印象なんて多かれ少なかれそんなものだ。夏目漱石もそんな風に書いている。


「ちょっと、本当に探偵を雇う気じゃないでしょうね……?」


 だいぶ引き気味に瑠璃子が椅子を引く。文脈的にはそう聞こえても仕方がない気もするが、軽蔑の視線はすでにそれを実行した人間へと向けられるものだった。


「違う誤解だ。そんなつもりねぇよ」

「そういうことにしておきましょう。……取り合えず、今は」


 信じてねぇな、絶対。


「で、ホントのところどんな計画なんだ?」


 よくぞ聞いてくれました、と瑠璃子は胸を張る。屈託のない彼女の笑みは、あまりいい予感がしなかった。


「講堂に行きましょう」

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