帝都瓶詰脳奇譚――推理しない探偵と不良女学生――

@weekday

序章 カレル瓶

第1話

 同じ手紙を、もう百回は読んでいる。

 黒川馨くろかわかおるは、武家の名門と称される黒川家侯爵の一人娘だ。

 上級生の彼女へ勇気を振り絞って書いた手紙の返事は、流麗ながら鼻に掛けた感じはなく、砕けた文章でさらっと綴られていた。まずは自己紹介から、と血液型まで書いたおかげか、返信には律儀に彼女の血液型も記されている。

 同じ、A型。

 つまり、身体を巡る赤い糸レベルで、彼女とは相思相愛の関係にあるということだ。手紙からは微かに彼女の香りがする。きっと舶来品の香水だろう。


「オイッ! 蘭子! いつまで油売ってやがる!」


 厨房から飛んできた声に、東雲蘭子しののめらんこはビクッとして耽溺から我に返った。


「るっせぇ! 今行くとこだったんだよ!」


 縞模様の単衣に椿の花弁で染めたような紅の帯、その上に純白のエプロンをつけた蘭子は、裾を払って事務室兼休憩室から出た。馨から送られた便箋は折れないよう大切に懐へ。忍ばせると陽だまりを抱き寄せたような温かさが胸に広がった。

 蘭子はうんざりして厨房に顔を出す。店長の佐々木万太郎ささきまんたろうが忙しそうに料理の盛り付けをしていた。


「蘭子テメェッ! 一人給仕が減ったこと知らねぇのか」

「ァン? 知ったことかよ。テメェが雇えねぇせいだろうが」


 エプロンの帯を締め直した蘭子は、湯気の落ち着いたコーヒーとフライを盆に載せる。フライ系は最近始めたメニューで、雷門前の西洋料理店〈よか楼〉から万太郎がレシピを拝借したものだ。味はもちろんのこと、盛り付けも間に合わせのやっつけ仕事のため元の料理よりも残念な出来栄えになっていた。


「やっぱセンスねぇ……」

「なんか言ったか?」


 いつの間にか真後ろに立っていた店長から逃げるように、蘭子は足早にホールへ出た。『ゴンドラの歌』が吹き込まれたレコード盤が今日もターンテーブルを回っている。

 浅草六区北側の一画、千束二丁目にあるカフェー〈リャナンシー〉は、喫茶店時代、女給時代と叫ばれる浅草のカフェー激戦区で風前の灯状態だった。

 一昨日辞めていった女給は賢かった。雷門市場近くに立派な店を構える〈カフェ・オリエント〉で働くと言っていたのだ。あっちの店の方が圧倒的に繁盛している。チップも多いはずだ。何より店支給の制服が可愛い。


「お待たせいたしました」

 テーブルに注文のあった料理を置いて、次の注文を取りに行く。蘭子を呼んでいたのは背広姿で山高帽を被った紳士だった。


「ご注文はいかがなさいますか」

「失礼ながら、先ほどから君のことを目で追っていたんだが――」

「そういうことならまた後にしてくれませんこと。給仕の数が足りてなくて手一杯ですから」


 にべもなく撥ねつけた蘭子の頭の中は、まだ懐に忍ばせた便箋でいっぱいだった。

 便箋には、蘭子が出した手紙への感謝だけが綴られていた。馨が自分のことをどう思ってくれているかは書いていなかった。分かっている。贅沢を言ってはいけない。優しい彼女にだって仲良くなる相手を選ぶ権利はある。書いていなかったということは、書きづらかったということであり、気を遣ってくれたということでもある。

分かっている。本当は諦めるべきだ。全部忘れて、無かったことにするべきなのだ。


「二席、空いているかしら?」


 厨房に戻ろうとしていた蘭子は、反射的にその声に振り返った。話しかけていたのは蘭子ではなく別の女給だ。声の主は空いていた席に通されて静かに座った。

 馨……!

 声を掛けられたわけでもないのに、飛び込むように蘭子はテーブルに駆け寄る。


「ご、ご注文は?」


 そして、すぐに後悔した。こんなところで働いているなんて知られたらきっと幻滅される。蘭子や馨の通う女子学習院は、その七割以上が華族の出身という由緒正しき女学校だ。学院に隠れてカフェーの女給をしていたなんてことが露呈したら退学は免れない。


「えぇと、まだ決まってないけれど、何がおすすめかしら?」


 メニュー表から顔を上げた馨と目が合う。黒蜜のような艶のある黒髪に淡い色ガラスの瞳。口元に湛えた微笑はあくまで控えめで、研ぎ澄まされた品性が垣間見える。学校で見るいつもの彼女と違って、麻の葉模様の着物は少し緩めな印象があった。それでも白い半襟が純粋さと可憐さを取りこぼさずにうまく調和させていた。


「もしかして、蘭子さん?」

「……人違いです」

「いえ、そうよ。絶対そう。いつもとは随分と口調が違うのね」


 蘭子は、自身の華族らしからぬ粗野な言葉遣いを憶えられていたことを恥ずかしく思う反面、憶えてもらえていたという喜びで胸が張り裂けそうだった。


「でも、私はいつもの方が好きよ」


 あぁ敵わない。蘭子は弁解する余地もなく借りてきた猫のようになった。


「学院には言わないでくれ」

「もちろんよ。だってお互い様だもの」


 そう言って正面に座った男に目配せをした。小綺麗なサラリーマン風の男は、帽子を上げて蘭子に向けて小さく会釈をする。


「如何わしい密会なんかじゃないけれど、カフェーに男の人と二人きりだなんて言ったらお母様は卒倒してしまうでしょうね」


 悪戯っ子のような表情で言うと、男も合わせて含んだように笑った。


「これは二人だけの秘密ってことにしましょ」


 表情では繕っているが、卒倒しそうな側に蘭子もいた。二人だけの秘密。なんて甘美な響きだろうか。


「実は、新しくこれを購入しようと思っているの」


 馨は、机の上に置いていあった高さ一尺ほどの円柱状の〝瓶〟に軽く触れて見せる。


「黒川様にはより高性能なカレル瓶が必要です。賢明な黒川様はそれをよくご理解されています」


 男の差し出した名刺を蘭子は一瞥する。


「培養器。通称、カレル瓶のコーディネーターを務めています。井原と申します」


 蘭子は形だけは丁重に名刺を受け取り、懐へいい加減に放り込んだ。


「おべっかはいいのよ。単に無くしてしまっただけだもの」


 照れながら馨は男を諭す。蘭子の傍に寄って耳打ちした。


「高価なものだから親には言い出しにくくて。それでこっそり相談を聞いてもらっているの」


 それを聞いた蘭子は、馨のような華族がこんな低俗な店を訪れた理由を何となく理解した。それにしたって、カレル瓶は女学生の個人的な所持金で普通買えるものではない。馨の資金力に蘭子は冷や汗をかいた。


「黒川様のご学友でいらっしゃいますね。どうです? 一緒にカレル瓶の購入を検討してみるのは? 性能は年々上がっていますし、酸素の循環効率もいい。身体の拒絶反応も昔に比べれば軽減されてきています。年齢によって必要な機能も変わってきているのではありませんか? 記憶力や演算処理能力の向上、必要でしたらあがり症のような精神面でも改善できますよ」

「いえ、別に興味は……」


 蘭子も旧型だがカレル瓶は所持している。だがそんな高価な物をおいそれと購入はできない。押しの強さにたじたじになる蘭子を、カレル瓶を使った経験がないと見たのか、男はすかさず自分の発明であるかのように語り出した。


「カレル瓶は、その名の通りノーベル生理学・医学賞を受賞したアレクシス・カレル氏の発明です。カレル氏によって、生物の細胞が不死であることは今や自明のものとなりました」


 男がカレル瓶の向きを変える。瓶といっても内容物の破損を防ぐためその周りは金属板で覆われている。一部の側面にだけ中が確認できるようスリットが開けられていた。


「瓶には死者の脳細胞が入っています。近年、新鮮な死者の需要が高まっているのはそのためです。培養器の中ではカレル因子を含んだ血漿を脳細胞に灌流させてその生命が維持されています。ただ、使用する際は大量の酸素を必要とするため、使用者との接続が必要になります」


 男はそう言って、几帳面なほどに密封された注射器と検査試薬を鞄から取り出した。


「メディウムの問題は解消されてねぇんだろ」


 蘭子は困らせるつもりで訊いた。男は、待ってましたと言いたげににやりと笑う。


内部環境培養生体メディウム・オルガニズムのことですか。そちらについてはご心配なく。確かにカレル瓶の発明はメディウムという不死身の人間を作り出しました。ただそれは、あくまでカレル因子を悪用した副産物に過ぎません。法律でも禁止されています。瓶は専門家でなければ開封できないような構造になっています」


 その手の問題はすでに解決済み、とでも言わんばかりの男は、すでに蘭子という新たな顧客を見つけた気満々でいるようだった。説明をしながら男は気安く馨の手を取る。蘭子のイライラは最高潮に達していた。


「カレル因子は人体に取り込まれやすい構造をしています。最近ではだいぶ落ち着いてきましたが流行性感冒スペイン風邪のようなものです。そのため試供用のカレル瓶を使っていただく際の血液型検査に合わせて、カレル因子が体内に含まれていないかも検査をしています」


「もう、そんな説明は後にしましょ」


 ぷりぷりと怒った馨は、男から自分の手を取り上げる。その目はメニュー表に釘付けになっていた。


「まずはお腹を満たさないと。初めてだから本当に迷ってしまうわ。カフェーながら洋食屋さんのようなメニューもあるのね。なんていいお店なの!」


 興奮気味の馨に蘭子も女給としての本分を思い出す。注文を取りに来たのだ。


「だろ。うちの店長センスいいからな」盛り付けを丁寧にするよう厨房に言いつけないと。

「じゃあ、私はシトロンとエビフライ。それと、ポークカツレツに……フィッシュポタージュ」

「僕は、コーヒーを……」


 今日はこの方がご馳走してくれるの、と嬉々としながら言う馨に男の顔は引きつっていた。この男、馨が食に貪欲であることを心得ていなかったとは、いい気味でしかない。

 注文を書き留めて、厨房に戻るとすぐに店長の怒声が飛んでくる。


「料理も運ばないでテメェ何してたんだ!」

「客の相手をしてたんだよ。それも仕事の内だろうが」


 言い返しつつ用意されていた料理を蘭子は運ぶ。実際、ここのカフェーでは女給に給料が支払われるわけではない。収入となるのは客からのチップで、半数以上の客は女給目当てに来店する。蘭子からすれば店に媚びる理由は何もなかった。

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