第9話 静かな誓約書
延命治療を希望されますか?
その問いに、どれだけの人が“正しく”答えられるだろうか。
◇ ◇ ◇
春の夕暮れ、帝都大学医学部附属病院の緩和ケア病棟。
葉山光璃は、1枚の書類を手にしていた。
「延命治療に関する事前同意書」。
入院患者・林原安子(はやしばらやすこ)、80歳。
家族がサインした“はず”のその書類には――肝心の本人署名がなかった。
「家族が、サインは“おばあちゃんがした”って言い張ってるんですけど……」
若手医師の宮坂が、困り顔で光璃に相談してきた。
林原安子は肺がんの末期で、数日前から意識レベルが低下。
今朝から急変し、ICUに運ばれたが、意識は戻らない。
だが――カルテには、「延命治療は希望しない」と書かれていた。
しかし、それは本人の直筆ではない。
(誰が、なぜ“延命を望まない”という文書を残したのか)
その夜、光璃は病室に向かった。
◇ ◇ ◇
面会室にいたのは、林原の長男・林原達也(52)とその妻・理沙。
二人は明らかに緊張した面持ちで、光璃と対峙した。
「母はもう十分に生きました。延命なんて、苦しむだけだと思います」
達也の言葉は正論のようで、どこか決めつけが強すぎる。
「でも……同意書の署名欄、空欄でした。これでは法的効力がありません」
理沙が、視線を逸らす。
光璃はふと、カバンの中の写真に目を留めた。
ICU搬送前の、林原安子の笑顔が写ったもの。
(この人、本当に“何も意思を示さなかった”のか?)
◇ ◇ ◇
翌朝、光璃は病棟の看護師・竹内に事情を尋ねた。
「林原さん、最期まで“意識がはっきりしてる間は生きたい”って言ってたんです。
“死ぬ準備なんてしたくない”って、笑って……」
その言葉が、光璃の中に小さな波紋を広げる。
その夜、光璃はカルテをすべて洗い直し、ある異変に気づいた。
3日前に提出された同意書の日付と、サイン筆跡の形が、
病棟に提出した他の文書とまったく異なっていたのだ。
(これ、本人じゃなくて……家族が“代筆”した?)
◇ ◇ ◇
翌日、光璃は再び面会室へと向かった。
林原達也夫妻に向かって、静かに言う。
「この同意書、偽造されましたね」
「な、なにを根拠に……!」
理沙が声を荒げる。
光璃は証拠を並べる。
筆跡鑑定、日付の不自然なズレ、そして病棟の看護記録。
「お母さまは、“延命はしたくないとは言っていなかった”。
少なくとも、きちんと話し合いがされていたとは言えない」
「だって……母の延命にかかる費用が、どれだけかかるか……!」
達也の声が震える。
「これ以上、金も時間も割けないんだよ!
子どもたちの学費だってあるし……!」
理沙が、そっと彼の肩に手を置いた。
「……でも、それを決めるのは、あなたじゃない」
光璃はそう言った。
「患者さんの命を、損得勘定で終わらせてはいけません。
だからこそ、“本人の意志”が必要なんです」
沈黙が訪れた。
やがて、達也がうつむき、ぽつりとつぶやいた。
「……すみませんでした」
◇ ◇ ◇
数日後。
林原安子の容態は静かに悪化し、穏やかに息を引き取った。
正式な同意が確認された上での、自然な死だった。
◇ ◇ ◇
病院の屋上で、光璃は風に髪をなびかせながら空を見上げる。
静かな死。
それは、静かな命の選択の延長線にあるべきだ。
医師としての自分が、正しい選択を支える存在でありたい――
心から、そう思った。
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