第8話 密室の処方箋

 帝都大学医学部附属病院、旧棟の四階――。

 第七隔離室にて、事件は起きた。


 死亡したのは内科医・津村義彦。

 発見されたとき、ドアは内側から施錠され、窓も開かない密室状態だった。


「自殺だろう。あの人、最近疲れてたしな」

 同僚たちはそう口を揃えた。


 けれど、葉山光璃の直感は、最初から違和感を覚えていた。


 ――こんな死に方、医者なら“選ばない”。


 


 ◇ ◇ ◇


 


 ナースステーションで、看護師の藤谷夏帆と向き合う。


「亡くなったのは明け方の5時頃。私が朝の巡回で発見しました」

 藤谷は眉をひそめながら言った。


「彼、最近なにかトラブルを抱えてた様子はありました?」


「……まあ。患者さんへの薬の出し方に、ちょっと強引なとこがあって」


 藤谷は言葉を濁したが、光璃は小さくうなずいた。

 彼女の正義感の強さは病棟でも有名だった。


 隔離室の中を調べると、点滴スタンドにリドカインのラベル。

 でも電子カルテには、そんな指示はどこにもない。


(この薬、必要ないどころか、明らかに“危険”だわ)


 


 ◇ ◇ ◇


 


 司法解剖の結果、死因はリドカインの急性中毒。

 血中濃度は致死量を優に超えていた。


 けれど、現場には空アンプルが1本しかない。

 致死量に届くには、2本以上必要なはず。


 そして――光璃は、隔離室のゴミ箱の底から、

 もう1本のアンプルを発見した。ティッシュに包まれ、隠されていた。


(隠したのは“自殺”ではありえない。誰かが“偽装”した)


 


 ◇ ◇ ◇


 


 光璃はあの日、鷹央にこう言われたのを思い出していた。


 ――「目に見える証拠だけじゃなく、感情の流れを読むのよ」


 それが今、自分の中でようやくつながり始めていた。


 彼女はナースステーションへ戻ると、藤谷に静かに語りかける。


「藤谷さん、あなたが最後に津村先生と会話したのは?」


「……深夜2時の巡回時です。普通に寝てました」


「じゃあ、どうして“午前5時時点で冷たかった”って断言できたの?」


 藤谷の目が揺れる。


 光璃は、ポケットから1枚の写真を取り出した。

 リドカインのアンプルに付着した指紋の鑑定結果だった。


「このアンプル。あなたの指紋が検出されたの。

 しかも“ティッシュに包んだ状態”でね」


「……っ」


 藤谷は肩を震わせた。


「津村先生は、私が処方ミスを指摘したことを逆恨みして、異動をにおわせてきた。

 黙っていれば、患者さんが危ない。私は、正しかったと思ってる。でも……」


「それでも、殺していい理由にはならない」

 光璃の声は低く、けれど揺らぎなかった。


「……分かってます。分かってるけど……悔しかった」


 藤谷の瞳には、涙がにじんでいた。


 


 ◇ ◇ ◇


 


 その日の帰り道、光璃は病院の屋上に立っていた。


 夕暮れの光が、遠くの街並みに溶けていく。


 鷹央先生がいたら、どう推理しただろう。

 もっと鋭く、もっと速く、誰にも負けない精度で……。


 でも今は、私がやらなければならない。


「……先生、私、ちゃんとやれてますか?」


 誰もいない空に、問いかける。


 その答えはないけれど、背中に吹く風が少しだけ温かかった。


 


 ◇ ◇ ◇


 


 葉山光璃の“処方カルテ”が、今、静かに開かれていく――。

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