第7話 名前のない記憶

 木漏れ日のような午後の光が、病院のロビーに差し込んでいた。


 天久鷹央は、珍しく白衣のポケットに手を突っ込み、足早に歩いていた。その後ろを、葉山光璃が追いかける。


「先生、本当に行くんですか? 直接、“白石由香”に会うなんて……」


「当然でしょう。彼女の“正体”を確認するには、私たちの目で見るのが一番よ」


 光璃はため息をつきながらも、天久の歩みを止めなかった。


 向かう先は、かつて“ライフ・ケア・サロン・COCO”があったビル。既に閉鎖され、シャッターも下ろされているが、内部の調査を申し込むと、管理会社の許可が意外なほどあっさりと下りた。


 


 ◇ ◇ ◇


 


 古びたビルの一室。白いカーテンと観葉植物が残されていた。


「内装は、いかにも“癒し系”の演出ね。でも――これは全部、仮面よ」


 天久が床を指差す。


 床材の一部が、通常のカーペットよりやや厚みがある。天久はしゃがみこみ、その端をめくった。


 すると、薄いフロアパネルの下から、細かなメモが貼られた手帳が出てきた。


「……まさか、ここに?」


 光璃が息をのむ。


 手帳には、患者名、日時、使用した“記憶誘導ワード”と書かれた表が並ぶ。そこには、はっきりと「田中晴樹」の名前があり、“池谷蓮司の詩”という記載もあった。


「決定的ね」


 天久が微かに唇を歪める。


「これがあれば、田中の“記憶”が操作された客観的証拠になる。問題は……」


 その先を言う前に、室内の扉が、カチリと音を立てて開いた。


 


 ◇ ◇ ◇


 


「……なるほど。そこまで調べられましたか」


 静かな声。扉の向こうに立っていたのは、一人の女性。


 黒縁眼鏡、端整なボブカット、無表情。


 間違いなく、“白石由香”だった。


「あなたがやったことは、医療行為ではありません。患者の心を操作し、記憶を“捏造”した」


 天久は静かに言い放った。


 だが、白石は微笑んだ。


「記憶なんて、所詮は曖昧なもの。人は、都合よく過去を編集して生きている。私はただ、少しだけ“整えて”あげただけです」


「あなたのやったことは、患者の“自己”を奪う行為よ。詩に乗せて記憶を誘導するなんて、美しい手口であっても、本質は“支配”に過ぎない!」


 天久の声が、ぴんと空気を震わせる。


「……あなたこそ、記憶の“神”にでもなったつもり?」


「……違いますよ、天久先生。私はただ、“私自身”を忘れたくなかっただけ」


 一瞬、白石の表情が曇った。


 天久の目が鋭く細められる。


「……あなたの過去にも、“消せない記憶”があったのね」


「……私の弟は、記憶を失ったまま交通事故で亡くなりました。“何も思い出せない”と泣いて……。私はその時、決意したんです。記憶を“書き換えられたら”、あの子は幸せになれたのかもしれないって」


 白石の瞳には、確かに罪と悲しみが混ざっていた。


「でも……それでも、他人の心に土足で踏み込むことは、正当化できない」


 天久の声は、厳しさの中に、わずかな慈しみを含んでいた。


 


 ◇ ◇ ◇


 


 白石由香は、その場で通報され、手帳と記録は証拠として提出された。


 田中晴樹の記憶は、精神科のサポートのもとで、徐々に回復に向かっている。


 “偽りの記憶”と向き合いながら、本当の自分自身を取り戻す日々。


 


「……記憶って、やっぱり不思議ね。壊れもすれば、救いにもなる」


 光璃がつぶやく。


「だからこそ、私たちは――それを“守る”側でいなければならないのよ」


 天久鷹央は、今日も白衣を羽織り、カルテを開く。


 記憶の迷宮は、終わることがない。

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