第5話 天才の眼

 その日、葉山光璃は心臓の鼓動が普段よりわずかに速くなっているのを自覚していた。


 2階の旧医局、そこはすでに使われていない小さな部屋だった。だが、今そこに、彼女のかつての指導医が戻ってきている。


「久しぶりですね、光璃先生」


 椅子にふんぞり返るように座っていた小柄な女性が、満面の笑みを浮かべて手を振った。


 天久鷹央――白衣の下に赤いパーカーという相変わらずのスタイルで、どこか幼さを残した顔立ちは変わらない。だがその瞳だけは、以前と同じくすべてを見通すように鋭く澄んでいた。


「先生……なぜ急に?」


「ちょっと、興味深い症例があると耳にしましてね。しかも、貴女が担当してると聞いては、黙っていられませんでした」


 光璃はため息をついた。


「相変わらずですね。医師免許はもう……」


「返納していませんよ。ただ、少しだけお休みをいただいていただけです。ほら、また事件の匂いがしてきましたから」


 天久は目を細めた。


「それで、例の“記憶を失った患者”……その彼のカルテ、見せてもらえます?」


 光璃はすでに用意していたファイルを差し出した。


「田中晴樹、26歳。事故により右肩脱臼と脳震盪。CTでは異常なし。だが事故直前の記憶と、事故当時に同乗していたという“池谷”という友人の存在が、証拠上確認できない」


「ほう……興味深い」


 天久は資料を眺めながら、声にほんのわずかな興奮をにじませた。


「記憶とは、ねじ曲がる。とくに、トラウマや極度のストレスが加わると、脳は“都合のいい物語”を構築してしまう」


「つまり、池谷は実在せず、彼の作り上げた虚構だと?」


「可能性のひとつです。でも……これ、気づきませんか?」


 天久は一枚の診療記録を指差した。


「彼が『見られている』と感じた時間、すべて午後9時前後」


 光璃はファイルに目を戻した。


「……確かに。だとして、それが?」


「“記憶の侵入”は、睡眠に入る前の時間帯に最も脆弱になる。脳は外部からの情報を夢に変換し、そのまま『現実の記憶』として保存してしまう場合がある」


「まさか……外部から、何かしらの影響を?」


「ええ。たとえば音、映像、あるいは……催眠のような暗示」


 光璃の背筋に冷たいものが走った。


「先生、患者の精神が不安定な状態を利用して、第三者が何らかの“情報”を植えつけたと?」


「そう。しかもその“池谷”という存在は、彼の脳がその暗示に応じて作り上げた『空白の友人』なんです」


 天久はニヤリと笑う。


「なら、まずやるべきは、彼の記憶の“裏”を取ること」


「裏?」


「ええ。嘘かどうか、じゃない。“誰かと一致するかどうか”を調べるの。たとえば、彼が言っていた『詩』の内容。“空白”ってタイトル、なかなか特殊でしょ?」


 光璃は、即座にタブレットを開き検索をかけた。そして数分後、一つのページに辿り着いた。


「……ありました。“空白”――2015年の自主出版詩集の中の一編。“記憶は過去に属さない。忘却は現在の領域だ”……まったく同じ言い回しです」


 天久がふっと笑った。


「著者の名前は?」


「池谷蓮司……!」


 二人の間に、静かな沈黙が落ちた。


「でも……この人、数年前に病死してます」


 光璃はページをめくり、死亡記事を見つけた。


「田中晴樹と彼に接点があったとは思えない……」


「だとすれば、誰かが田中の“無意識”に、池谷蓮司の詩を植えつけた可能性が高い。記憶の輪郭が曖昧なのは、そのせいでしょう」


 天久の瞳が鋭く光った。


「これは、心理操作を用いた“医療犯罪”かもしれませんよ、光璃先生」

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