第4話 忘却の記憶
診察室の窓の外は、もうすっかり夕暮れに染まっていた。淡いオレンジ色の光が、葉山光璃の白衣を優しく照らしている。
正面の椅子に座る田中晴樹の顔には、何かを思い出すかのような苦悶が浮かんでいた。
「……あの時、事故の直前に、僕は……妙なものを見たんです」
田中の声はかすれていたが、その言葉に光璃は反応を見せた。ペンを止め、目を細めて彼を見つめる。
「妙なもの……?」
「はい。車を運転していたのは友人の池谷で、僕は助手席に座っていました。山道の途中、急に彼がブレーキを踏んで、『見たか?』と叫んだんです」
「何を?」
「わかりません。ただ、僕もその瞬間、何かが道の真ん中に立っていたように思えたんです。人影のような、でも確かに人ではない……。輪郭が曖昧で、まるで霧の中の何かみたいでした」
光璃の眉がわずかに動く。人影。それは、田中が夜になると「見られている」と感じていた存在に似ているのではないか?
「その影を見て、車がハンドルを切って、崖から……?」
「ええ。その瞬間、あの影が、僕の目を覗き込んだ気がしたんです。あの感覚……いまも夢に出てきます。視線、じゃない。『覗き込まれている』という、異様な感覚。僕の記憶の奥まで、何かに手を突っ込まれたような……」
光璃はゆっくりと椅子にもたれかかった。
(記憶の操作?幻覚?もしくは、外傷性脳障害による後遺症……。だが、話が一致しすぎている)
事故当時の報告書を確認しても、友人の池谷については「運転していた痕跡がない」とされ、誰も彼を見ていなかった。現場にも指紋が残されていなかったのだ。まるで、最初から彼が存在しなかったかのように。
その「存在の消失」こそが、この事件の最大の謎だった。
「田中さん、あなたの記憶の中にいる『池谷』という人物について、もっと詳しく教えてもらえますか?」
田中は少し驚いたような顔をしたが、頷いて言葉を紡ぐ。
「大学の同級生でした。文学部で、少し変わったやつで……よく“空白”という詩を好んでいたのを覚えています。“記憶は過去に属さない。忘却は現在の領域だ”って言ってたのが印象的で……」
「記憶は過去に属さない……?」
光璃はその言葉を口の中で反芻した。まるで、自分が“記憶を操作する存在”であるかのような言い回しだった。
「それに……思い出せないことが、他にもあるんです」
「何を?」
田中は眉をひそめた。
「彼の顔が、ぼんやりしてるんです。声も。何度思い出そうとしても、まるで、霧の奥にあるように……。誰かが、僕の記憶から彼を引き剥がしていったみたいに……」
光璃の胸に寒気が走る。これはただの記憶障害ではない。
もしかすると、本当に誰かが意図的に、彼の記憶を「書き換えた」のではないか?
そのとき、診察室の扉が控えめにノックされた。
「光璃先生、失礼します。天久先生から連絡です」
ナースの声に、光璃は一瞬、驚いた顔を見せた。
「天久先生? 彼女、退職されたのでは……」
「はい。でも、たった今、病院に戻ってきました。『話したいことがある』と」
葉山光璃は立ち上がった。かつての上司であり、あらゆる難事件を医療知識で解き明かした天才――天久鷹央。
彼女がこのタイミングで戻ってきたのは、偶然ではない。
「田中さん、今日はここまでにしましょう。しばらく休んでいてください。次は……少し、特別な人とお話をしてもらうことになるかもしれません」
そう言って診察室を後にした光璃の胸には、ざわざわとした予感が渦巻いていた。
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