第3話 過去の影

葉山光璃は、田中晴樹の言葉が頭から離れなかった。「何かが見つめている」。その不安定な言葉の背後にあるものは、彼の精神的な問題にとどまらず、もしかしたら過去の事件と深く結びついているのではないか、という考えが浮かび上がってきた。


今日も光璃は、病院の診察室で田中と向き合っていた。田中は相変わらず、薄暗い顔をしていたが、光璃の問いかけには、少しずつ心を開き始めているようだった。


「晴樹さん、昨日話してくれた事故のこと、もう少し詳しく聞かせてください。その事故が、あなたの現在の状態にどのように影響しているのかを、理解したいんです。」


田中は黙ってしばらく俯いていたが、やがて深く息をつきながら話し始めた。


「その事故…事故が起こったのは、私がまだ若いころです。大学の帰り道、友人と一緒に車でドライブしていたんですが…途中、何かに引き寄せられるような感覚があったんです。視界がぼやけ、頭がくらくらして、その瞬間、車が崖から転落しました。」


光璃はメモを取りながら、田中の顔を見守った。事故の瞬間、何か異常を感じたということか。そんな感覚が、事故後の彼の精神状態と繋がっているのだろうか?


「その時、誰かが車の中にいたんですか?友人は?」


田中は目を閉じ、言葉を絞り出すように続けた。


「はい。友人が一緒に乗っていました。ですが…気を失って目を覚ましたとき、友人の姿は消えていました。彼は、どこにもいなかったんです。あのとき、私が目にしたのは…誰もいない空間でした。」


その言葉に、光璃は驚いた。友人がいない。事故の際に、何か不自然なことがあったのは確かだが、まさか彼の記憶にも空白があるとは…。


「友人の行方について、警察などで調査はされましたか?」


「はい、もちろん調べました。でも、友人はどこにも見つかりませんでした。私が意識を取り戻したとき、病院にいることは分かっていました。警察も事故を調査したのですが、結局、友人は行方不明のままで…。何も分からないまま、私は退院しました。」


光璃はメモを取りながら、田中の言葉のひとつひとつに注意深く耳を傾けた。事故の時、友人がいなくなったという話は、まるで現実ではないかのような印象を与える。しかし、田中の表情からはその出来事の重みがひしひしと伝わってきた。


「そして、その事故から数ヶ月後、夜になると、あの暗闇の中で見つめられているような感覚が始まりました。」


「それは、事故の後に始まったんですね?」


「はい。最初はただの夢だと思っていたんですが、だんだんそれが現実のように感じてきました。気づくと、目を覚ましてから、暗闇の中で誰かがじっと見ているんです。」


その言葉が、光璃の頭の中で何かのピースを埋めるかのように響いた。田中が語る「暗闇の中で見られている」という感覚。彼の記憶と、この症状が密接に結びついていることは間違いない。だが、その背後には何か別の力が働いているのではないだろうか。


「晴樹さん、その『暗闇』の中にいる存在について、もう少し詳しく話してもらえますか?」


田中は視線を落とし、しばらく沈黙した後、ゆっくりと語り始めた。


「それは、最初は人間のような形が見えました。でも、それがだんだん不確かなものになり、気づけば、形のない影のようなものが見えるようになったんです。何も話さない。ただ、私を見ている。それが…死後の存在だと感じるようになったんです。」


その瞬間、光璃は一瞬、冷たい感覚が背筋を走るのを感じた。この「見つめられている存在」が、もし本当に死後の存在だとしたら…。田中の言う通り、それが本当にただの幻覚なのだろうか。それとも…。


「晴樹さん、その影があなたに向かって何かをしてきたことはありますか?例えば、あなたに触れるとか、声をかけるとか。」


田中は少し黙って考え込み、やがて低い声で答えた。


「いいえ。ただ、じっと見ているだけです。でも、目を覚ました後、その視線がずっと残っている感じがするんです。それが耐えられなくて、夜になると眠れないことが多くなりました。」


光璃はじっと考え込み、再びメモを取る。その時、ふと思いついたことがあった。事故後の記憶喪失、そして田中が語る「見つめられている存在」。これらがすべてひとつの出来事に繋がっているとしたら…。


「晴樹さん、あの事故の直前、あなたが見たものや感じたものについて、もう少し詳しく教えてくれませんか?」


田中は驚いたように目を見開いた。


「それは…どういう意味ですか?」


光璃は少し顔を近づけて、静かに答えた。


「事故の直前、あなたは何かに引き寄せられるような感覚を覚えたと言いましたよね。それがもしかしたら、あなたの意識を操作する何かの兆しだったのかもしれません。」


その言葉に、田中はしばらく黙っていた。そして、しばらく経った後、ようやく口を開いた。


「それなら、もしかしたら…あの時、見たものが関係しているのかもしれません。」


光璃は目を見開いた。田中が語ろうとするその「見たもの」とは一体何なのか…。その答えが、事件の真相を解く鍵となるのかもしれない。

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