第2話 闇の中の囁き

葉山光璃は、田中晴樹の話を慎重に聞きながら、心の中で次の一手を考えていた。精神科医としての経験をもとに、田中の言うことが単なる幻覚やストレスによる症状なのか、それとももっと深い理由があるのか、掴みどころがない。


だが、田中の言葉が心に引っかかる。死後の体験、そして暗闇の中で見つめられている感覚。それは何かの兆しに違いない。


光璃はメモを取りながら、田中に再び質問を投げかけた。


「晴樹さん、その『見つめられている何か』について、もう少し詳しく教えてください。あなたが感じている『何か』、それは物理的な存在だと思いますか?」


田中は小さく震えるように、再び目を伏せた。


「それが、分からないんです。最初はただの夢だと思っていました。だけど、目を覚ました後に、背筋が凍るような感覚が残るんです。何かが、確かにそこにいる。僕の背後に、誰かが立っているような気がして…。」


その言葉を聞いた光璃は、改めて田中の目を見つめた。心の中で警鐘が鳴る。患者の語る「誰か」は、ただの錯覚や幻覚ではなく、もっと深い問題が絡んでいる可能性が高い。


「晴樹さん、もう少し過去のことを話してもらえますか?最近の出来事だけでなく、過去に心に残るような出来事はありませんか?」


田中は少し考え込み、やがて口を開いた。


「過去ですか…。実は、3年前に大きな事故に遭いました。交通事故で、意識を失ったんです。それが…私の人生を変えた。」


光璃は興味を引かれた。田中が話す事故。それが彼の症状と何か関係があるのだろうか?


「その事故はどのようなものでしたか?」


田中は少し沈黙した後、重い口調で語り始めた。


「私は運転していた車が、突然、崖から転落しました。車の中で気を失い、目を覚ました時には病院のベッドの上でした。最初は無事だと思ったんです。でも、そこからおかしくなり始めました。」


光璃はじっと耳を傾け、田中の話を追う。


「事故後、目を覚ましたとき、私はもう自分がどこにいるのかも分からなくて、意識がぼんやりとしていました。でも、病室で目を覚ました瞬間、誰かが目の前に立っていたんです。それは…家族でも看護師でもない、全く見覚えのない人でした。」


光璃は驚きながらも冷静を保つ。


「その人はどんな姿をしていましたか?」


田中は少し考え込み、やがて低い声で答えた。


「それが…顔がよく見えなかった。ぼんやりとしたシルエットで、暗い影のようでした。その人は何も言わず、ただ僕をじっと見ているだけでした。その視線が、今でも忘れられない。」


光璃はメモ帳に何かを書き留めた。田中の話は単なる幻覚ではない。事故が引き金となり、彼は何か異常な体験をしているのかもしれない。だが、それが何なのか、いまはまだ分からない。


「その後、その人物はどうなりましたか?」


田中は首を振り、苦しそうに目を閉じた。


「その人は、すぐに消えました。だけど、あの視線が忘れられない。それ以来、夜になると、またあの暗闇の中で見られているような気がして…。それが、僕を追い詰めているんです。」


光璃は深く頷いた。田中が語るその「誰か」は、まるで彼を監視しているかのような存在であり、事故をきっかけに彼の心に深い影を落としている。


「晴樹さん、その『暗闇の中で見られている感覚』について、もう少し詳しく教えてもらえますか?それが、どのような状況で起こるのか。」


田中は苦しげに目を伏せながらも、答えた。


「それは、寝ているときに感じるんです。夢の中で、僕は確かに死んでいる。その瞬間に、暗闇が迫ってくる。何も見えないけど、何かが動いている気配がする。そして、目を覚ますと…そこには何もない。でも、背後に誰かがいる気がして。」


光璃は深く息をついた。田中が見ているものが実際に存在しているのか、それとも彼の心の中で何かが壊れているのか…。それを解明するためには、もっと情報が必要だ。


「晴樹さん、あなたが見ているその『暗闇』、その中に何かが動いているというのは、どんな形ですか?それが人間なのか、何か異物なのか…。」


田中は目を見開いた。驚きと恐怖の入り混じった表情で、彼は答えた。


「…それは、人間のような形ではありません。ただ、何かが動いているんです。形は分からないけど、確かに…動いている。まるで、僕を狙っているような気がするんです。」


光璃はその言葉に、一瞬、背筋が凍る思いがした。この現象は、ただの幻覚や錯覚ではなく、もっと深いところに潜んでいる何かが関与している可能性が高い。


「分かりました、晴樹さん。もう少し詳しくお話をお聞きします。それから、少しだけ休んでください。」


田中は静かに頷いたが、その表情はどこか不安げだった。光璃は、この事件の背後に何があるのか、徐々に明らかにしていかなければならないと感じていた。そして、その答えは予想以上に恐ろしいものかもしれない。

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