【毎日17時投稿】葉山光璃の処方カルテ

湊 マチ

第1話 心の奥底の暗闇

帝都精神病院の一室。午後3時、明るい日差しがカーテン越しに差し込む中、医師・葉山光璃(はやま こうり)は静かに座っていた。彼の目の前には、一人の患者が座っている。その顔は、どこか疲れたように見えたが、目は鋭く、何かを隠しているような気配が漂っている。


「光璃先生…」


低く震える声が部屋に響いた。患者、田中晴樹(たなか はるき)は手を組みながら、目を合わせようとしない。彼の目の奥には、深い闇が宿っているように見える。


「どうしましたか?晴樹さん。」


光璃は冷静に尋ねる。精神科医として、患者の心の中を探るのは日常的なことだが、今回はなにかが違う。普段の患者には見られないような重圧が、田中には感じられる。


「僕は、見ているんです。」


田中の言葉に、光璃は眉をひそめる。言葉は意味不明だった。目を見開き、どうしてその言葉が出てきたのかが分からない。しかし、田中はその後に続けて言った。


「自分が、死ぬ瞬間を。」


光璃は、すぐにペンを取り、メモ帳に何かを書き留める。これは、患者が本当に見ているものなのか、それとも彼自身の心の中に潜む恐怖なのか。


「死ぬ瞬間、ですか?」


「はい。毎晩、寝ているときに…」田中は一瞬言葉を濁す。「僕は、死んでいるんです。死んでいるときに、何かが僕の体を揺さぶって、目が覚めるんです。でも、それは…夢じゃない。」


田中の言葉に、光璃の手が止まった。ここまではよくある話だ。死後の世界に関する錯覚や、夢の中での死の体験。しかし、田中はそこに明らかに違和感を感じていた。


「それが夢でないと言う根拠はありますか?」


「はい、先生…」田中は小さくうなずき、目を伏せた。「その死ぬ瞬間、何かが僕を引き寄せるんです。目を覚ますときに、必ず誰かが僕を呼んでいるんです。声は聞こえないけれど、確かに…僕を呼んでいる。目を開けたくないのに、目を開けさせられている。」


その言葉が光璃の胸に刺さる。目を開けさせられる? それはただの夢ではない。何かが、現実と夢の境界線を越えて、患者に干渉しているような、そんな感じがした。


「それで、目を開けた瞬間に、何が見えるんですか?」


田中はしばらく黙ってから、顔を上げた。その表情には、恐怖が色濃く浮かんでいる。


「…暗闇の中で、何かが見える。何もかもが黒くて…それでも、何かが動いている。それが僕を…見ているんです。」


光璃はメモを取りながら、再び顔を上げた。患者の言葉には、何かの暗示が隠されている。そして、それは単なる精神的な問題ではないのかもしれない。


「もう一度、言ってください。『見ている』とは、どういう意味ですか?」


田中は震える声で言った。


「それは、…『見ている』んです。僕が死んでいる間、暗闇の中で、僕を見つめる何かがいるんです。そして、その何かは、僕が目を開けた瞬間に消える。でも、それが誰か…何者かは、分からない。」


光璃は手を止め、じっと田中を見つめた。彼の目の奥には、深い不安と恐れが満ちている。それだけではない。田中が見ているものは、単なる錯覚ではない可能性が高い。


「分かりました、田中さん。少しずつ、話していきましょう。」光璃はゆっくりと話し始める。「その暗闇の中で何が見えたのか、そして、どうして目を開けたくないのか。その『何か』について、もっと詳しく教えてください。」


田中は再び目を伏せ、深い息をついた。


「それが…怖いんです、先生。目を開けたら、何かが見える。それは、夢の中でも現実でも、僕を確実に捉えている何かなんです。」


光璃は田中の目をじっと見つめ、冷静に問いかける。


「もし、あなたが見ているものが現実の一部だとしたら、その『何か』は、ただの幻覚ではなく、実際に存在しているのかもしれませんね。」


その言葉が、田中の心に深く響いたのか、彼は肩を震わせた。目の前の医師が語るその言葉は、まるで現実と夢の境目をすり替えるようなものだった。


「…それが、僕が恐れていることです。僕は、ただの夢だと思いたかった。でも、何かが見える…それが本当なら、僕は、今、現実に取り込まれつつあるんです。」


光璃はその言葉を心に刻んだ。田中が抱えているのは、単なる精神的な疾患ではない。何か、彼の心に深く食い込んでいる謎がある。

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