第2話 屏風の向こう

 「春の夜、ふと見上げれば、屏風に描かれた桜の花が、まるで生きているかのように揺れていた。」


 そんな話が、ひととき、流行した。


 話の発端は、銀座の裏路地にある小さな骨董店にあった、一本の屏風からだった。その屏風には、満開の桜が描かれており、まるで風に揺れる花びらが、実際に震えているように見える。


 だが、屏風をよく見る者にしか分からないことがある。桜の花の中に、どこか奇妙なものが潜んでいるのだ。


 遠くからは見えない、ただの“花”にしか見えないが、近づいてじっと見つめると――その花びらの間に、無数の“人の目”が隠れている。


 目が、ぎょろぎょろと動き、じっと見ている者を見つめ返すのだ。


 最初にそれを発見したのは、若い男性だった。名は相良武雄。普段は絵画を嗜む文学青年で、奇妙なものに目がない。彼は、店の奥でその屏風を見つけ、一目で心を奪われた。


「これだ……」


 彼は店主に言った。


「この屏風、売ってくれ」


 店主は黙って首を振りながら、低い声で答えた。


「それは、売り物ではないのだ。持ち主が無くなってから、誰にも売れぬようになった」


 だが、相良はその言葉に耳を貸さなかった。彼は、どうしてもその屏風が欲しかった。そして、ついに店主を説得し、安価で手に入れた。


 家に持ち帰ると、彼はすぐに屏風を開いた。


 その夜、相良は気づかなかった。屏風を広げたその部屋には、もう一つの“影”が宿っていることを。


 不安な気配に気づくのは、夜半を過ぎたころだった。相良は眠れぬまま、ふと目を覚ました。


 部屋の中、薄暗い灯りの中で、屏風の桜が揺れている――いや、桜が揺れているのではない。その中から、何かが動いている。


 それは、次第に形を持ち、目に見えるようになった。屏風の花びらの間から、無数の目がこちらを見つめているのだ。


 そして、その目からひときわ異常に大きな目が、ゆっくりと開いた。


 その瞬間、相良は耳を覆いたくなるような低い声を聞いた。


「見つけた……見つけた……」


 その声は、屏風の向こうから響くようで、次第に部屋の中に満ちていった。まるで、声が現実を捻じ曲げ、周囲の空間を変えていくように。


 相良は恐怖に駆られ、屏風を閉じようとした。しかし、屏風はまるで固まったように動かない。力を込めて閉じようとするが、桜の花びらが逆に広がり、目がどんどんと増えていく。


 ――そして、彼の目の前に、屏風の向こうから姿を現したものがあった。


 桜の花の中から、ゆっくりと一人の“女性”が這い出てきた。顔は不明瞭だが、その背後からは、今にも桜の枝が伸びてきそうだった。女性の手は、まるで枝から生えたように、どこまでも細長く、ひび割れていた。


「私はここに、ずっといたのだよ」


 その声は、相良の耳元でささやかれた。彼は身を震わせたが、その瞬間、女性はその細長い手で、相良の腕を掴んだ。


 “目”は、さらに増え、彼を取り囲んでいく。どこからともなく、無数の声が鳴り響く。


「あなたも……私たちと一緒に、ここにいるのだ……」


 それは、永遠に続く、無数の目を持った“桜の花”の中で。


 翌朝、相良の部屋は静まり返っていた。


 だが、屏風の花びらの中にひときわ目立つ、ひとつの目が残されていた。

 それは、相良のものだった――見開かれたまま、動かない目だった。


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