煙蒐屋怪談

岡本煙蝶

第1話 金魚のいない金魚鉢

 銀座の外れに、〈古道具 煙蒐屋〉という小さな店がある。


 看板は煤け、暖簾は色褪せ、店内は天井が低くて湿っぽい。明かりもほとんどなく、埃と古木のにおいが鼻をつくような場所だった。


 その店の隅、棚の奥に、それはひっそりと置かれていた。

 ――金魚鉢。


 丸く、澄んだガラス。縁には淡く青い染付の唐草模様。水は一滴も入っていないのに、光が差すと内部に水面が揺れるような錯覚を覚える。不思議と視線が吸い寄せられ、離れなくなる。


 買い手がつかないまま、何年も棚の上で眠っていたが、ある日、その鉢を買っていく者が現れた。


 若い画家だった。名は千代谷宗一。

 頬のこけた、どこか薄暗い顔立ちの青年で、普段は人と交わらず、画室にこもって絵ばかり描いていた。


 彼は鉢を見るなり、ふと笑みを浮かべてこう言った。


「……懐かしいな。見たことある気がする」


 道具屋の主、老人は目を細めた。


「気のせいじゃろう。あれは、ずいぶん古いものでな。前の持ち主は、もう……」


 何を言いかけたのか、老人はそれ以上語らなかった。


 千代谷は鉢を持ち帰り、画室の机の上に置いた。水は入れず、金魚も入れなかった。ただ、日々その鉢を見つめ、絵を描いた。


 最初は、ただの静物画だった。鉢の輪郭、光の反射、影の落ち方。

 だがしばらくすると、キャンバスには“赤い魚”が描かれるようになった。


 鉢の中に泳ぐ、一匹の金魚。細長い尾、ひらひらと揺れる鰭、大きな黒い目。だが、どこか歪んでいた。骨格がおかしく、鱗の並びが反転している。


 見る者は皆、首を傾げた。


「これ……金魚ですか?」


 千代谷は決まってこう答えた。


「たぶん、思い出だよ。昔、飼っていたんだ」


 それから、千代谷の周囲で奇妙なことが起こりはじめた。


 夜中、画室から水音がする。


 ぴちゃ……ぴちゃ……と、まるで何かが泳いでいるような音。

 目を凝らすと、鉢の中がしんと濡れて光っている。


 ある夜、彼は夢を見た。


 暗い水の中。沈んでいく無数の指先。紅の爪。開かれた目。


 金魚の尾が、ゆっくりとそれを飲み込んでいく。


 目覚めた彼の足元には、水たまりができていた。


 その翌朝。千代谷は、忽然と姿を消した。


 戸締まりはされていた。画室は荒らされていない。だが、机の上の鉢の中には――薄く、水が張られていた。


 そしてその水面の底。そこには、かすかに赤いものが沈んでいた。


 指のようにも、絵筆のようにも見えるそれは、今もなお、誰も触れられずにいる。


 


 しばらくして、煙蒐屋の棚には、またあの金魚鉢が戻っていた。


 今度は、まるでずっとそこにあったかのように、埃を被って。


 そして、今日も時折、棚の奥から水音が聞こえる。


 ぴちゃ……ぴちゃ……と。


 ――その音を聞いた者は、きまって言う。


「……あれ? いま、何か、泳いでませんでした?」

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