接客業のためのカスハラ観察記録

紫丁香花

第1話:割れたコップ

朝いちばん、まだ店内が静けさに包まれている時間帯に、その男は現れた。


白髪交じりの七三分け、ワイシャツにチノパン。背筋だけは妙にまっすぐだが、手に持っている紙袋はくたびれて、口がだらしなく開いていた。

レジ前に立つなり、従業員を一瞥して言う。


「これ、昨日買ったんだけど、家で開けたら割れてたんだよ。交換してよ」


彼が取り出したのは、うちでも人気のある耐熱ガラスのマグカップ。

底からパックリと2つに割れている。


「あの……レシートはお持ちですか?」


新人の神崎が、少し緊張気味に声をかける。

彼女はまだ入社二ヶ月。高圧的な年配男性を相手にするのが苦手。

彼女を気にかけるように僕はバックヤードから姿を現した。

佐々木。27歳男。小物からインテリアまで扱う雑貨屋の店長だ。


「レシートね、あるに決まってんでしょ」

男はため息を混ぜながら、財布からレシートを雑に引き抜いて差し出した。


「てかさぁ、昨日レジしたのあんただよね、その時に普通商品に割れあるか確認しないもん? これだから女は」

新人の彼女に男は粘着質な言葉を投げかける。


「……私昨日お包みする際にきちんと確認しました。」

責める言葉に、彼女は思わず反論してしまった。確かにヒビが入っていたらすぐにわかるようにパッケージ無しなのだ。

だが、それはお客様に言ってはいけない。


「はぁ? お前俺が割ったって言いたいわけ? 朝イチに来てんのに、なんだよその態度」

怒りの矛先が自分に向くのを感じる。


「横のやつもぼーっと見てないで対応しろよ、おたくの従業員に不良品渡された上に疑われてんだけど。こっちは朝イチからわざわざきてんのよ」


“朝イチに来た人間は全員正しい”というロジックはどこで生まれたんだろう。


まぁ、男も彼女も帰宅後まで気づかなかったと言うのは、明らかにおかしい商品だ。

彼女は普段から商品を隈なく点検しているし、パッケージもないのに割れに気づかないことはない。

仮に目視で気づけないヒビが入ってしまっていたとしても、強化ガラスのため衝撃を加えないとあのように真っ二つにはならない。

多分、家で落とした。あるいは、袋をどこかにぶつけたのだろう。


「ご迷惑をおかけして申し訳ございません。すぐに新しいものをご用意いたしますね」

僕は穏やかに頭を下げた。


よく自分で割ったコップ持ってきて、そんな横柄でいられるなぁと考えながら、交換用の商品を手早く用意する。

ふと神崎を一瞥すると、彼女の顔には、明らかに「納得いってないけど口に出せない」苦さがにじんでいた。


戻ってきた僕が新品を差し出すと、男は受け取りながらこう言った。


「まあ……今後はちゃんと検品しといてよな。俺、わざわざ戻ってきたんだから」


僕はにっこりと笑い、静かに返した。


「ええ、今後は念のため、レジの際にお客様と一緒に商品の状態を確認させていただきますね。…割れていれば、必ずその場で気づきますから」


男の表情が一瞬止まり、口元だけがひくついた。

だが、僕はあくまで柔らかく、丁寧な声色でそのまま頭を下げた。


「本日はご足労いただき、ありがとうございました」


男は無言のままレジ袋を掴み、無言のまま去っていった。


神崎がそっと僕を見上げた。「……あの、申し訳ありませんでした」


彼女には、これからいろいろな試練が降りかかるだろう。

お客様に反論しない、など色々伝えたいことはあるが、僕はとりあえず一言。


「気まずくて言い出せなかったんだよ、自分が割ったけど買ったばかりで勿体無いから交換してほしい、なんて」

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