第57話 姿は変わらなくても
鏡から穏やかな春の木漏れ日のような光が翔悟を照らす。文献通りに配置し、見守る翠雨は不安で眉が寄っている。
浮かび上がるものは、翔悟を鬼に変えたような影だ。鏡の光の中で限界まで翠雨に手を伸ばした。
「翠雨に笑って欲しかった。我儘を言って欲しかった。僕が好きだって、言って欲しかった」
それは翔悟が翠雨に思っていた本音だ。ずっとそう願ってきた。
「僕が笑わせたくて、僕に我儘を言って欲しかった」
壁があるように翔悟の影の手のひらは翠雨に届かない。
「僕が、一緒に妖怪になろうと言ったら、翠雨はどうした?」
答えは決まっているのだろう、と翔悟の影は泣き笑いで聞いた。翠雨ももちろん答えは決まっていた。
ためらったのは、この影に触れても良いのかだ。
「決まっているわ。私は翔悟さんに我儘を聞いてもらうためにここまで来たの」
翔悟の影は俯いて手のひらも離れる。
パシン。
乾いた音が響く。翠雨は離れていく翔悟の影の手をしっかりと掴んだ。
「私は翔悟さんと人間として向かい合うの。翔悟さんが妖になりたいかなんて関係ない」
翔悟の影は黄金に輝き出す。
「私の我儘、聞いてくれるんでしょ」
「やっと我儘を言ってくれたね」
壁から出た翔悟の影の手は黄金色に輝いて消えていくのに、翠雨の目元を撫でていることがわかる。
「笑って」
翠雨は戸惑ったが、この言葉は笑って言えると口を開く。
「ありがとう」
黄金の光が翠雨の頭に集まる。この温もりを、翠雨は知っている。
「お兄ちゃん……」
笑った顔は神社で出会った男の子と重なった。
八咫鏡から出る光は収束していく。翔悟の影も消えていった。
「すい、う」
動いた翔悟の体からは、角は消えていた。
「翔悟さん、今までありがとう。これからもそばにいてね」
まだ恋愛感情かはわからないけれど、翠雨は彼が特別であるとわかっていた。あとはこの気持ちを温めて、彼がそばにいてくれるのなら伝えよう。いや、そばにいないのなら、今度は翠雨がそばにいる努力をする番だ。そして伝え続けるのだ、彼と同じように。
香月は笑い合う翠雨と翔悟を見て、安堵した。
「アメノウズメ様の言うとおり、翠雨はもう大丈夫だ」
二人が気付く前に初花と滝を潜った。不安そうにする初花に頷いて、引っ張って行く。
これからは初花と共に、二人の幸せを祈ろう。
初花の着物の裾が滝の裏へ入っていく所を翠雨と翔悟は見ていた。
香月が笑って手を振ったように見えた翠雨は、小さく手を振り返した。
香月の覚悟を知っていた翠雨は二人の平穏を願った。
「……香月先輩、ありがとうございました。いつかまたーー」
呟いた翠雨をニコニコと眺めている翔悟の視線に、振り返る。翠雨は、ほんのり頬を染めた。しかし、捻くれたことを言おうとして、グッと口を噤んだ。
「翔悟さん、これから会ってほしい人がいます」
「え?」
「ここまで私と香月先輩を支えてくれた人達にお礼を言うんです。私にとって大切な人達です」
翔悟の知らないところで成長した翠雨は、翔悟にとって一際輝いて見えた。けれど、少し悔しくもある。
その悔しさを自覚しても、否定することはやめた。翔悟も変わっていかないといけないのだ。できれば、翠雨の横で。
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