第53話 黒い着物の妖怪
手を振る八重から、今度こそ旅立った。
早朝であったため村人はまだ眠っている。明鏡寺を出る時に久松に頭を下げた。
少し冷えるほど早い時間。昨日入ってきた門の反対側に向かうと、川が流れていた。辿っていけば滝に着けると確信する。
一キロメートルくらい歩いた頃に滝が見えた。香月も翠雨も、道中は一言も話さなかった。
そこから翠雨には見覚えのある人影が出てきた。その背後には鉢を被った黒い着物の女性がいる。
翠雨は息を呑む。香月は翠雨を振り返った。
「あの着物が?」
「彼が飯沼翔悟です。鉢を被っているところは違いますが、この気配は確実に彼を攫った妖です」
虚ろな瞳の翔悟の額からは、角が生えている。鉢を被った妖怪は、香月に目を留めた。
「勝五朗様!」
喜びの声と共に、黒い着物の妖怪はその場に倒れる。しかし香月と翠雨には霊体のように半透明の物体が翔悟の口に入って行くところを見た。
「勝五朗様、ずっとあなた様を捜しておりました。あなた様がまた現れるその日を、心待ちにしておりました。あとは彼の体を私のモノとしたら、再びあなた様のおそばにいられるのです!」
全身が翔悟の体に入り込んだ瞬間、翔悟はうめき声をあげる。
「翠雨! 翠雨の声がする! ようやく帰って来た、やっと会える」
ふらりふらりと翠雨に近寄る翔悟だが、翠雨は全身の毛が逆立つような嫌悪を覚える。
「近寄らないで、ください。あなたは、初花さんですか?」
ジリジリと後ずさる翠雨は、体の反応とは違い、頭は冷や水を浴びたように冷静だ。
「あなたも、勝五郎様の香りがする。そう、どうりで……」
納得する翔悟の体は、黒い着物の女性の体を抱き上げる香月を見た。妖怪の着物は裾から徐々に薄桃色に変わる。
「初花! 初花!」
翔悟の体は小首を傾げる。
「勝五朗様、それはただの器ですよ。私は、初花はここです」
香月は勢いよく顔を上げて睨みつける。
「お前はただの妖怪だ! 初花は彼女だ」
翔悟の体は悲しげに傾く。
「なぜそのような悲しいことをおっしゃるのです? その器は妖となった時分に、あなた様を忘れ去ったのです。ずっとあなた様を愛し尊び、想い続けてきたのは私です! 勝五朗様の魂を分け合ったあなたなら、わかるやろ?」
黒いウロのような瞳を向ける翔悟の体から、翠雨は目を逸らした。
「香月先輩、彼女は妖です。でも、確かに薄桃色の着物と同じ気配がします」
もう誰にも真実が見えないでいた。
着物が黒から完全に薄桃色に変わった時、香月のポケットの中がほのかに温かい熱を持つ。慌てて取り出したハンカチは重ね菊が朱色に染まっていく。薄桃色の着物の下からも、かすかに朱色が見えた。取り出すと同じ柄のハンカチが出てくる。
「それは! 勝五朗様、今も持っていてくださったのですね!」
翔悟の体が重ね菊のハンカチを持つと、朱色の菊は黒く濁った。
「どうして? 私の手拭いが、なぜ?」
動揺する翔悟の体。着物の妖怪は、うっすらと瞳を開く。
「勝五郎、様」
「初花!」
着物の妖怪の冷え切った手を左手で握りしめる香月。着物の妖怪はかすかに話し出す。
「私、思い出しました。ちゃんと、思い出したのです」
着物の妖怪の語る話は、切ないものだった。
「勝五朗様の足を治すため、御百度参りをした私は、願いが叶ったことを確認した後、代償として妖となりました。妖の欲望と人間の理性は、徐々に二つに分かれました」
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