第52話 出会わなければならなかった人

「おはようございます。朝ご飯、出来ていますよ」

控えめなノックで襖が開く。久松の穏やかな挨拶だった。

香月も翠雨も、今までで一番良く眠った。憑き物が落ちたように柔らかい挨拶を返す。

「おはようございます久松さん」

「おはようございます。朝ご飯にお味噌汁はありますか?」

「おい翠雨!」

ささやかな笑い声が宿坊で重なった。

「お味噌汁もありますよ。私は朝の掃き掃除の時間ですので、八重さんと三人で召し上がってください」

順番に着替えて本堂へ向かう。三人で仏像に手を合わせて静かに食べ始めた。

朝ご飯は漬物と煮物、味噌汁と白米だった。翠雨は残さず食べる。香月も感謝を込めて一口ずつ大事に口へ運んだ。

全員が箸を置くと同時に「ごちそうさまでした」と手を合わせる。

「心の整理はできましたか」

正座を崩さない八重の言葉に二人は頷いた。

「私が視野を狭め、見ないようにした過去を間違っていたとは思いません。ですが、そのまま生き続けていた私は間違っていたと思います。気付かせようとしてくれた人に感謝を伝えるためにも、やはり昨日の質問にお答えいただきたいです」

八重は何も言わずに頷いた。次は香月の番だ、と直感した。

「俺は、未熟だったと思います。賢いつもりで大人のつもりで生きてきました。それは今の人生だけではないと思っています。他人と向き合っているつもりなだけのこの人生を変えたい。そのためには、会わないといけない人がいる。感謝だけではなく、謝罪もしないといけません」

二人の言葉に、八重は深く、何度も頷いた。

「そうですね。きっとあなた達が自分と向き合って悩んで出したその答えは正解なのでしょう。満足のいく答えを出したこと、それは大きな成長です。これからも、時々自分を振り返って、ゆっくり落ち着いて考える時間を持ってください。必死に駆け抜ける人生も素敵です。それでも間違った道を進んでいないか、仲間を置いて行っていないかを考えることも、素敵な人生の礎となるでしょう」

長い人生を歩んだ大先輩の言葉は、しっかりと記憶に刻まれた。この言葉を、これから出会う人達にも、もう出会った人達にも伝えていきたいと、香月は思った。きっと翠雨も同じことを思っただろう。口を引き結んだ翠雨の目に、もう濁りはなかった。

「明鏡寺の裏に大きな滝があります。その滝は阿弥陀如来様から託された、桃源郷への入り口です。そこを潜れば桃源郷と隠世に別れる道があります。右手へ進んでください。その先に大事な方がいるでしょう」

頭を下げる香月と翠雨はお礼をはっきりと伝えた。

「ありがとうございます」

「ありがとうございます。願いが叶った暁には、再びお礼に伺います」

この時、礼だけを告げた香月は、もうここに戻ることはないと感じていたのかもしれない。

「ご武運を」

手を合わせた八重に、立ち上がって改めて頭を下げた二人は、滝へ向かう。

「翠雨さん」

香月は先に荷物を取りに宿坊へ向かう。翠雨は八重の元に正座をした。

「アメノウズメ様からの言伝があります。この八咫鏡を持って行ってください。この鏡は二つで一つ。大事な人も持っていることでしょう。使い方はわかっているだろうから、万が一の時に使ってください」

手鏡ほどのサイズの八咫鏡を胸に抱き、八重に抱きついた。

「返しに来ます。見守っていてください。八重さん、アメノウズメ様」

「あなたなら大丈夫です」

翠雨を宥めるように撫でた八重の背中が、少し濡れた。翠雨は再会を決意して名残惜しい八重の腕の中から、ゆっくりと離れる。

「今度は大事な人と来ます」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る