第50話 ヨモツヘグイ ー隠世ー

清姫の寺とは反対方向へ漂って行く薄く細い煙を追う。時折、煙の妖怪と混ざり合って見失ってしまう。けれど何度見失っても、翔悟と初花が見つけるまで付近で漂っているため、追いかけることができた。

古都の入り口は二ヶ所ある。清姫の寺から入った方角が鬼門である。今出て来た門は裏鬼門に当たる。

古都から出る門を抜けると、見晴らしの良い草原がある。奥は蜃気楼のように曖昧で、森なのか山なのか、海が広がっているのか、何もわからない。その蜃気楼から離れるように、煙は左に曲がる。

裏鬼門から出て左なので午の方角。つまり南に向かって三十分ほど歩いた。

南には高い崖があり、上からは滝が勢い良く流れている。池に溜まった水は、そのまま停滞して見えた。

池の横に立つ大きな梅の木の前で、くるりと一回転し左向きの矢印の姿をした後、阿弥陀如来らしい煙は消えてしまった。線香の香りは、吹き抜ける風と共に翔悟と初花の間を抜けて行ってしまった。

立派な梅の木に、なんとなく片手で触れた。大きく逞しい梅の木から鼓動のような温かさを感じる。安心感を覚えた翔悟は、瞬間ゾワリと不安が心を支配した。

(別に妖怪になりたいわけじゃない。でももし翠雨が人間をやめてでも僕を選んでくれたら、それ以上に安心できる事実はないじゃないか)

――次はお前だ。お前は自分の気持ちを見失うなよ。

日向の言葉を思い出す。

(見失ってなんか、ない。気付いてしまったんだ。同じ言葉が返ってこないことにも、延々と期待し続けることにも、僕は、疲れた)

翠雨の気持ちを試したら、希望か絶望かはっきりするだろう。

一瞬、鬼のような姿をした翠雨を思い描いてしまった。その時に湧き上がった気持ちを自覚する前に、初花の穏やかな声に、心臓がドクンと鳴った。

「ショウ君」

滝の後ろへ回り込むように道がある。

「阿弥陀如来様はきっとこの道に進めって言っていたんだと思います。左に進めばいいんでしょうか」

動揺を初花に悟られないように、少し捲し立てて話した。翔悟自身も、違和感を自覚していた。進もうとする翔悟を、初花は呼び止める。

「もうこの旅も終わりや。最後にこの美しい梅の木を見てお菓子食べへん? 私が作ってんで? このお団子」

三色団子の入った和紙の包みを広げる初花を見る。

「な? 一口くらい、食べてくれへん?」

――あんたが妖化を拒むなら、初花に気を許さない方が良い。

初花の後ろに暗い影を見つけてしまった時、ふと清姫の言葉を思い出した。あの時の脅し文句は警告だったのだ、と今ははっきりとわかる。

断ろうと思っていた翔悟は言い知れぬ緊張感の中、視界の団子から目が離せなくなった。

「ほら、ひとくちお食べ」

初花の背後の気配と、誘惑のように目が離せない団子。

(甘いのだろうな。モチモチして美味しそうだ)

次第に気持ちは団子へ向かい、食べてしまいたいほど愛おしく感じる。

(この団子を、食べたい……。食べなければ、この気持ちは満たされない……。いや、喰いたい、喰わなければ……)

ゴクリと生唾を飲み込み、右手が団子へ伸ばされる。

初花はじっと翔悟が口に運ぶ様子を見つめている。鉢の中の瞳はギラギラと光り、三日月に歪んだ初花の瞳は翔悟の右手に釘付けだ。

翔悟が三色団子の一番上の一玉を咀嚼し飲み込む。

――もうこの世界の食べ物を口にしない方が良い。

突然、爆竹が弾けるように清姫の言葉が思い起こされた。

(今、僕は)

右手には赤白緑の内、赤が欠けた串が握られている。恐怖に駆られ、食べかけの串を放り投げた。

――初花には気を付けるんだよ。

「団子、もう食べへんの? まだあるよ」

今も、翔悟の瞳には初花の後ろに黒い着物の女性が見えている。黒い髪の内側から、立派な角が見える。

燃えるように熱い額に震える手を当てた。硬い突起物に触れる。今もじわりじわりと生え進んでいる。

躓きながらそばの池に顔を写した。透き通る水に、角と牙を持った翔悟が絶望した表情でこちらを見返している。

翠雨が鬼となった姿を想像した時の気持ちに、今、名前が付いた。

「翠雨が、僕と同じ鬼になったって、嬉しくない……。嬉しいはず、なかった」

ツーと涙が一筋だけ伝う。決壊したようにポロポロと雫が落ちていく。

――妾のこの感情は悲哀や苦痛も快楽とする月の民であるがゆえのモノ。

隠世に来て悩んでいた事柄が、全て一つにつながった。

「ただ、好きだよって、言って欲しかっただけ、だったんだ……」

初めは、どうしたら気にしてくれるだろうと、思っただけだった。

(カクリヨに行ったって言ったら、少しは興味を持ってくれるかな)

民話や伝承を研究する彼女だから、せっかくこんなにも不思議な世界に来たのだから。

(沢山、面白い話を持って帰ろう)

次第に、妖怪達の話が耳に残って、心に残っていく。

初花、清姫、輝夜。

それぞれの話は、妙に後悔が滲んでいて、翠雨への気持ちに焦燥感を芽生えさせた。

自分も拗らせたら妖怪のようになるのだろうか、と。でもなぜか、彼らの気持ちに共鳴する気持ちは確かに存在した。

あまりに醜く汚い感情を、受け入れられなくて認めたくなくて、その結果が鬼の姿か。

隠世に来てから、手品のように引っ張り出される自分の気持ち。

(自分はもっと、単純で綺麗な人間だと思っていた)

受け入れて開き直ったら、もう自身の欲望を満たすことしか考えられなかった。

醜い考えが自分じゃないとは言わない。けれど、その欲に呑まれることは違う。

自分の本当の姿は、鬼だったのだ。

「こんな姿じゃ、翠雨に会えない……」

ついに出た言葉に、初花は言った。

「その姿じゃ、帰れへんね。その姿は要らんやろ。やったら、私にくださいな」

振り返ると、涙で滲んだ視界で、初花は大きな鉢を落とした。後ろにいた黒髪に黒い着物の人物はいつの間にか姿を消していた。代わりに、鉢を落とした初花の姿はそっくりだった。

意味がわからず、固まっていると、ツンと頭部を人差し指で突かれた。意識が途切れる間際、翔悟と初花の言葉が重なった。

「もう、逢えない」

「もうすぐ、逢えますね」

取り返しがつかない過ちと、自身の愚かさを呪った。

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