第44話 歪み ー隠世ー

驚いたのは輝夜だけではない。しかし声を上げることができたのは輝夜だけだ。翔悟は反応できなかった。天武は苦い顔で日向と輝夜を見守っている。

「母様、ごめんなさい」

呟いた日向は十二単の上にかけていた輝く羽衣を奪う。翔悟の瞳には、輝夜がキラキラと輝く膜を纏っているようにしか見えなかった。

キーン。

布の千切れる音とは思えぬ、金切り声のような高い音が耳を突き刺す。日向と輝夜以外は、皆耳を塞いだ。反響音も含めて音が消えるまでにゆうに十秒はかかった。思わず目も閉じた翔悟は、音が消えたことを確認して瞼を上げる。

立ち尽くす日向を抱きしめる輝夜。そのそばには徐々に黒ずんでいく羽衣だった物が落ちている。

「日向、なんてこと……」

「母様、これで月に帰らなくても良いですね」

輝夜の言葉は、自身への行いについての言葉ではなく、傷付いた表情をする日向へ向けてだ。

日向の顔は、計画完遂の達成感ではない。自分の気持ちばかりを優先した行動の持つ意味をようやく察した顔だ。

殺されることはないが、日向と輝夜、そして天武は月の使者の重い罰を受けるかもしれない。一度、天武と子を成した輝夜と月の民を誑かした天武は、日向よりも重い罰を受けるだろう。

計画を完遂し、冷静さを取り戻した日向の聡明な頭脳はこの後に起きるあらゆる可能性を考えているだろう。けれど今更どうにもならないことも、日向はわかっている。できることは、ただ明るい未来を願うことだけだ。

泣き笑いのように呟いた言葉は、胸が締め付けられるほど涙声だ。

「ごめんなさい。俺はただ、母様と父様と、一緒にいたかっただけなのです」

輝夜は日向の頬に口付けた。

「母様のせいで、寂しい思いをさせてごめんなさい、日向は何も悪くはありません」

天武は弾かれるように日向と輝夜に駆け寄った。

「日向、輝夜。私が悪いのだ。輝夜といたいがために日向に苦しい役割を担わせた。日向を見ると、輝夜が恋しくなる。だから、私も日向を遠ざけた。すまなかった、日向、すまなかった」

日向は堪えるように嗚咽を漏らしていたが、すぐに大きな声をあげて泣き出した。そんな日向を止めることができるわけもない。月の使者の中で一際、威厳のある者が出てきた。

「日向様。今回の事態は重く受け止めなければなりません」

両袖に腕を入れた、背丈の高い月の使者は眉間に皺を寄せて日向を見下ろす。

「俺は、私はどうなっても構いません。ですから、母様と父様を引き離すことはもう、やめてください、お願いします」

輝夜と天武の腕を抜け出して頭を下げる日向にならって輝夜と天武も頭を下げた。

「日向は悪くないのだ。私が悪かった。日向だけは助けてくれ!」

「日向だけはどうか、どうかお願い致します」

月の使者は蔑むように見下ろしていたが、大きなため息を吐いた。口角を上げた月の使者は左手で無精髭を撫でる。

「輝夜様、羽衣はそう簡単に作ることは出来ないことを良くおわかりでしょう。数百年、いやもっとかかるかもしれないのです。それほど貴重な物なのですよ」

貴重、と強調した月の使者に怯えるように日向は拳を握った。

「今すぐ用意出来る代物ではありません。羽衣が用意できるまで、輝夜様は月へは帰れませんな。未熟な日向様の些細な失敗です。羽衣が出来上がるまで。それまでは隠世に滞在してください」

日向と目の合った月の使者は、おどけてウインクをした。日向の顔が晴れる。

「しかし! 羽衣が出来上がった時は、輝夜様と共に日向様も月へ帰るのです。約束ですよ」

日向の前で立膝をついた月の使者は小指を差し出す。

「ああ、約束だ!」

月の使者は牛車と共に光の絨毯を戻って行った。

翔悟は喜び合う三人を眺めた。

――彼が妾を選んだことや、常識や良識を無視するほど愛してくれている。

輝夜の言葉で自覚した欲望は黒いシミの上に馴染んで、黒とも灰ともつかない複雑な色に染まる。

翔悟を振り返った日向は歯を見せて笑い、大きなピースサインをして見せた。

かつてはこの欲望も、穏やかな薄桃色だったはずだ。けれどなぜか今は、所々が爛れ汚らしく汚れていた。

(翠雨は、僕のために妖怪になってくれるだろうか)

自覚した想いは黒い水面に落ち確実に波紋を広げて行く。

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