第42話 ソウハ ー人間をやめるということー
空が紺色から白く変わっていく頃には、ソウハは綺麗に灰となっていた。
ソウハの灰を持っていた巾着に詰めて、こらえていた涙が決壊したように溢れ出す。
生き物を刺すなんて怖くないはずがない。笑って血を舐めるなど、できるはずがない。それでも、人間ではない生き物と添い遂げると誓った時から、覚悟はできていた。
手に残った感触が恐ろしい。
「わたし、この手で、ソウハ様を」
ソウハが消えるまで、笑顔でいる。それは半ば意地でもあったし、ソウハへの愛でもあった。
溢れる涙と、この手の感触は、忘れられない。
「いつまで待てば良いですか……?」
呟いた直後、体に流れる血が変わっていくこと感じる。熱く、熱く燃えるような温度が体をめぐる。
「かはっ、う、ぐあぁ」
尋常ではない吐き気が込み上げても、口から出ていくのは、不快感ではなく唾液と漏れた声だ。
不快感が落ち着いたのは、ソウハを灰に変えた太陽が頂点に達した頃だった。
呆然といつもの木陰で泉を見つめた。全てを捨てる覚悟でここへ来たが、八重も馬鹿ではない。ソウハの血を舐めたということは、伝説通りであれば八百比丘尼となったということだ。ソウハも八百の年を生きると言っていた。
年老いることも、死ぬこともない永遠の少女など、普通に生きていけるはずもない。八重にはそういった事象に関してアドバイスをくれる者はそばにいない。知恵も知識もなかった。
「お腹、空かないな」
「八百の年を生きる少女になったのだからお腹なんて空かないわよ」
呟いた言葉に、まさか返事が来るとは思わなかった。
きつい物言いに覚えがあり、泉の岩陰に目をやると、赤い髪が揺れた。姿を現すつもりはなさそうだ。
「あなたは欲望の無い寿命だけの生き物になったの。それはお兄様の呪い。持て余した時間をどう使うかはあなたの自由。もう人魚に手を出さないことね。でも、一つ助言をするとしたら、せいぜい後悔しないように生きること」
八重に姿を見せなかったことも、自分が八重を見なかったことも。理由などレイハはわかっていた。ソウハのように狂ってしまうことを恐れた。愛してしまうことを恐れた。あの時に殴ってでもソウハを止めていれば良かった。ソウハを止めて嫌われることも、ソウハに恨まれて生きることも、ソウハの生の責任を負うこともできなかった。
ソウハは臆したことなどなかった。強く、他者に影響されることがない。けれどそのソウハ自身は周りに多大な影響を及ぼす。レイハのように、他者へ影響を与えることに怯えなかった。
強い兄を愛していた。愛しているがゆえに、比べられることが恐ろしかった。少しでも近づきたくてきつい物言いを真似た。それでも自分の臆病が変わることはなくて、強がりばかりが身に付いた。
そんなレイハが自身の恐怖心を殺して、ようやくできた行動は、意味もわからず妖怪に身を落とした哀れな少女に助言をすることだった。
「ありがとうございます。レイハ様」
レイハが思ったよりも明るい声が返ってきた。穏やかに、けれど強い意志を持ってレイハの耳に八重の声が届く。
「私は誰かに依存することなく、自分の意思で行動できるようになろうと思います。ソウハ様の願いを叶えるばかりではなく、時には正しい愛の伝え方をお教えできるように」
八重は、ソウハが人間と違う思考で動いていたことをわかっていたのかもしれない。その上でソウハを愛し、殺したのだろう。
レイハが思っていたよりも強く、愚かで純粋だった人間を、ついに振り返って見てしまった。
レイハの瞳に映った少女は、ソウハが言うほど美しくも儚くもなかった。極々普通の少女だ。レイハの方が美しい自信がある。けれど目が離せない。
「最後に会えて良かったです。ありがとうございました、そしてさようなら」
レイハは人間を見たことを後悔した。
「お兄様は、いつも正しいのよ」
人間は、目に焼きついて離れない不思議な雰囲気を持っていた。レイハの心にも棲みついて離れることがなさそうだ。
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