第41話 ソウハ ー偏愛ー

「お兄様、宝珠から離れてください。今ならば一時の気の迷いだと、彼の方にお口添えいたします。もう人間とは関わらないと、そう言ってくだされば、またあの頃のように」

本当はこの気持ちを、一番に八重へ伝えたかった。けれど、レイハの背後からは他の人魚の気配がする。一番に八重に伝えられずとも、せめてこの気持ちを偽らずにいたい。そんなソウハの気持ちは、人魚のプライドなのだろうか。

「俺は八重を愛している。それは変わらない」

レイハはビクンと体を揺らす。その目は絶望に満ちていた。

「今のお言葉、撤回していただけますか。そうして頂かなければ、お兄様は」

「そこまでだ、レイハ」

「お待ちください! お兄様は冷静さを失っているだけなのです! わたくしにもう少しお時間を」

必死に彼の方に縋り付く。そのレイハこそ、冷静さを失っている。

低い声を出した彼の方とは、人魚の長だ。

「ソウハ。我の命を無視し人間と触れ合い、あろうことか仏殿方から賜った如意宝珠に触れようとは、嘆かわしい。短剣は夜明けと共にお前を突き刺すだろう。好きなところで死ね。それが我からお前にやる唯一の慈悲だ」

長は短剣を放り、踵を返した。

長の頭に思い浮かぶのは、人間を救い、身代わりとなって命を落とした姉のことだ。人間はみな、自分達の存在を知ることなく死んでゆく。人魚がどれだけ心を砕いても気が付かない。それでも人間を愛した姉は、それは不憫だ。

そんな二の舞にならないため、人魚には人間と触れ合うことを禁じ、蔑むよう教育した。それでも、人魚は人間を愛する性なのだろう。

この悲劇を見届けた人魚は、また長い時間をかけて語り継ぎ、そして薄れた頃にまた悲劇を生むのだ。

長の力ではその連鎖を止めることはできない。けれどせめて、惨劇にはならぬよう、宝珠に願おう。

月光は傾き始めている。ソウハは勢い良く泳ぎ出す。短剣を携えて、今も待っている八重の元へ向かった。一秒でも長く彼女といたい。ソウハは、彼女ならば待っていてくれるだろうと、確信していた。

「その短剣は運命断絶の祈りが込められている。運が良ければ、今度は彼女と同じ人間に生まれ変わるだろう」

呟いた長の言葉に、振り返った。

八重と出会って、人魚であることを幾度となく呪った。彼女と同じ人間でなかったことを呪った。彼女と生きられないことを呪った。この頭脳も美貌も、八重を幸せにできないのならば、何の意味もない。

けれど、一つだけ良かったことがある。この広い世界で、広い海で生きてきて、八重に出会えたのだ。それだけで、幸せだったと言えるだろう。

「今まで、ありがとうございました。俺は、幸せでした」

その場の人魚達は今まで見たことがないほど幸せそうなソウハの笑顔を見つめた。

いつものほとりにたどり着いた時、八重は泉に足をつけて月を見上げていた。

「八重」

ソウハが声をかけると、八重は満面の笑みを浮かべた。

できるだけ切ない笑みを浮かべて八重に手を伸ばす。

「八重、八重。初めて会った時から、大好きだった。愛している」

手が届いたのは八重の方が先だった。

「私もソウハ様が大好きです。さあ一緒に逃げましょう。私も故郷と家族を捨てます。だから、一緒に」

ソウハを胸に抱き、穏やかに言う八重に、涙を流してみせた。あと少しで、きっと優しい八重の心にソウハが残り続ける。

自分にはこれが最善だった。そう思える。彼女の心は、優しく広いがゆえに、自分だけで独占することはできない。一番割合を多く占める方法は、八重のために死んだと思わせること。

「俺は、日の出と共に死ぬのだ。だから、最後は八重の手で。そして俺を刺したら俺の血を飲んでくれ。そうしたらお前は八百の年を生きるだろう。生まれ変わって、確実にお前を見つける。八重、俺の最後の望みを、聞いてくれるだろう?」

八重を抱きしめたソウハは、ゆっくりと離して、銀色の短剣を差し出した。

ソウハは清く愚かで優しい八重に憧れた。けれど、どれだけ八重に影響されようとも、どれだけ真似ようとも、妖怪であるソウハには所詮真似にしかならなかった。

愛しているのに、八重の幸せを一番に願えない。八重が幸せであってほしいと一番に望めたのなら、ここに来なかった。結局は欲望と本能のままに生きる醜い妖怪でしかない。

こんなにも残酷な方法はきっと八重には思い付きもしないだろう。

「そう、なのですね」

美しい涙を流す八重は、それでも笑顔だった。

八重を見ると醜い自分が嫌になる。けれど、今この瞬間には、八重の心を占めることが自分だけであることが気持ち良くて仕方がない。

自分が醜ければ醜いほど、八重が輝かしく美しく魅力的に感じる。

「ならば、ソウハ様が望むのならば、私は」

ソウハの手から短剣が離れていく。美しいものを汚してしまうのは、気持ちが良い。

そんなことを思っている間に、胸部が熱を持った。

ザクっと、ちょうど心臓に短剣が刺さっていた。返り血を浴びた八重は、怯えていなかった。躊躇いも感じない。いつでも純粋で純情な八重は、ソウハが言う通りに、これが愛の形だと信じて疑っていなかった。

「私、ソウハ様が大好きです。愛しています」

そう言って短剣を引き抜いた。血が垂れる傷口に舌を這わせた八重は上目遣いに笑む。

ソウハは満足して八重に手を伸ばす。

人魚が死ぬ時は灰になって水に溶けていく。傷口から熱が全身に回っていく。ようやく八重と同じように体が温かくなったことが嬉しかった。視界が徐々に黒く狭まっていく。

ソウハを膝に抱く八重は口角が上がっている。体温の高い八重が好きだった。でも今は、ソウハの体の方が熱い。

「今日の八重は、少し冷たいな。お前が俺に触れる時は、こんな感覚だったのだろうか」

自分の熱が八重へ伝わっていく感覚も心地良い。

「八重、声を聞かせてくれ」

黒かった視界を徐々に陽の光が侵食する。終わりが近づくが、最後に八重の腕の中だったことは、今までで一番幸せだ。

「ソウハ、大好きです。ずっと、ずっと待っていますから、私を、八重を見つけてくださいね。絶対ですよ」

その言葉が聞けただけで、ソウハは満足だった。ヒレから徐々に灰になっていく。最後に言いたいことがあったと口を開いて手を伸ばす。

「八重、またな」

いつも八重が言う言葉を、ソウハも言ってみたかった。いつもソウハのもとへ来るのは八重だった、だから次はソウハが足で迎えに行きたい。

「はい。待っています」

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