第40話 ソウハ ー人間の娘ー
ソウハはマーメイドに慕われる美しいマーマンだった。ハープも上手く頭も良い。泳ぎも速く、鱗も美しい青色だった。マーメイドだけでなく、水の生き物全てに慕われた。のちに海の覇者となる。誰もがそう信じていた。ソウハ以外のみなが。
ソウハは人間を嫌っていた。どの人魚より、生き物より嫌っていた。
美しい水の世界を、私利私欲で汚す人間に憎悪を覚えていた。
そんな海の中でも、日本の水は清かった。次第に人魚は日本の河や海に住み出した。明鏡泉も、そんな人魚の見つけ出した楽園だった。
人間には姿が見えない人魚達は、同胞の恨み言一つ、人間に届けられなかった。しかし不満は無い。怒りはあるが期待は無い。プライドが高く自然に近い人魚は、下等な人間には自分達の考えなど分かりはしないと割り切っていた。
静かで美しい自然に囲まれた、居心地の良い泉は動物にも愛されて、かつての地球を思わせる。
「あなたは?」
そんな泉に、初めて人がやって来た。嫌悪感を覚えたソウハは水でも跳ねさせて追い出そうと思った。しかし、振り返ってしまったことが悪かった。初めて見た人間の少女は、ソウハが想像していたよりも、儚くて美しかった。
「人魚様?」
ソウハは息を呑んだ。一歩、また一歩と近づく少女に、ソウハは尊大な態度で言葉を発する。
照れ隠しか、はたまた格好つけたかったという男性特有のプライドだったのか。それは今もソウハにしかわからない。もしかしたらソウハにもわからないかもしれない。
「人間、俺が見えるのか」
「やっぱり、私達人間を守ってくれている人魚様! 本当にいてくださったのですね!」
好奇心旺盛な少女は、八重と名乗り、ソウハの話を一生懸命に聞いた。
ソウハは、八重の興味を薄れさせないように、あの手この手で好奇心を掻き立てた。水場から長く離れられないソウハは、八重がここに来てくれなければ会えない。
彼は、八重を殊更気に入っていた。
「また明日」
八重がそう言うたびに、ソウハの明日は希望に満ちて、八重が来るまでの時間は、次に会った時の引き止め方を考えた。
「八重、俺に婚約者ができた」
前に八重と会った後に人魚の都に帰ったソウハは、海の支配者にそう告げられる。ふわふわと柔らかく桃色だったソウハの日々に亀裂が入った。
八重との生活は永遠ではない。わかっているつもりだった。ソウハは八重よりはるかに年上で、八重の方が先に死ぬ。八重の死んだ後も、長い時間を生きていくことは、わかっているつもりだった。
いっそ、八重を虜にしてしまい人魚の世界に連れ帰ることも考えた。それでも水の中で八重は生きられない。自分も水の外では生きられない。
次に八重と会った時、思わず吐き出した弱音に、八重も戸惑った。
「もう、会えない」
最後に、一度くらいは、触れても良いだろうか。伸ばした手はパシっと握られる。
初めて触れた八重の手は、人魚と違い温かかった。八重の手から伝わる温かさが、ソウハの心も温かく癒される。思わず瞳を細めた。
「ソウハ様は、婚約について良く思っていないのですか?」
不安げに揺れる八重の瞳を見ると、ふと一つだけ解決策を思い付いた。
「今晩、またここに来てくれるか? その時に、俺の気持ちを伝えたい。お前がここに来たら、もういつもの生活には……」
「大丈夫です。今晩また会ってくれるのなら、その時に私の気持ちも伝えます。だから、必ず会いましょう」
ソウハと八重は、お互いの目を見つめ合って、気持ちを確認する。あとは言葉で伝えたら、確信に変わるだろう。
「また会いましょう」
そう言っていつものように、ソウハは去っていく八重の後ろ姿を見つめた。
たとえ、この恋が禁忌であっても、この気持ちは止められなかった。同胞を捨てる覚悟は、できていた。
ソウハは八重の姿が見えなくなっても見つめた。
彼女と走れる足が欲しかった。彼女と森を歩きたかった。この広大な海から、空を見つめるばかりの生活は、もう嫌だった。あの足が手に入れば、彼女と同じ人間になれれば、あの空もあの森も、海だって泳げる。水の都を狭いと思ったことは初めてだった。
「俺は八重と、共に」
覚悟を決めたソウハは、水の都を目指す。
水の都の最奥に鎮座する如意宝珠。かつて日本に人魚がやって来た時に仏から授かった、人魚の秘宝だ。
日本の海の守護としてワタツミと、水を司る龍神がいる。外の海からやって来た人魚を受け入れ難いと拒否した彼らを取りなしたのが、仏であった。
仏は慈悲深く、全ての生き物を導く役目を担う。神が生き物の運命を決める存在であるとしたら、仏はその運命を見届ける存在だ。
仏は人魚に、仏の秘宝である如意宝珠を護る役目を与え、海の住人である許可を取った。宝珠は、どんな願いも叶えるという力がある。
その宝珠を使えば、ソウハだって人間になれるだろう。
珊瑚礁や岩の隙間を縫うように泳ぐ。少しずつ明るい光が見えてきた。狭い隙間を泳ぎ切ると、開けた明るい空間が顔を出した。ソウハも初めて入ったそこは、揺れる水面と月光が合わさってオーロラのようだ。
周りは岩で囲まれ、入って来たトンネル以外に出入り口はない。上部の海面からも出入りはできない。この空間を守るように囲む岩は、海の上にも伸びている。海に特化した人魚には岩場を通ることは難しいだろう。
月光が射す位置に祭壇が設けられていた。真ん中に置かれた金色に輝く丸い物体は、美しく面妖な雰囲気を放つ。一目でその金色の物体が如意宝珠だとわかる。しかし、仏が持つ宝というには、妖怪のように妖しい雰囲気だ。
願いを叶える。その効果が、魅惑的で欲望を刺激する雰囲気を漂わせるのだろうか。
近づけば近づくほど、欲望が刺激される。願いを叶えることは一度とは聞いていない。ならば、八重の心をソウハに縛り付けることも可能だろうか。人間になるだけではなく、二人で永遠に生きることも可能なのでは。
あと少しで宝珠が手に入る。その時、聞き覚えのある声が耳に届いた。
「お兄様!」
弾かれるようにソウハは顔を上げた。入り口にはおよそ兄妹とは思えないほど、特徴の違う人魚がいた。特徴は異なるが、その顔のパーツは確かに血を分けたのだと伝わる。
青色が特徴的なソウハに対して、その人魚は赤色が目立つ。
「お兄様、ついにご乱心ですか!」
握りしめた拳がフルフルと揺れる。
「レイハか。お前はまだ八重の美しさを知らない」
ようやく宝珠の魔力から解放されたソウハは、しかし恋の魔力からは解き放たれない。宝珠の力以外のモノにも、心を奪われているということだ。
「お兄様ほどの賢きお方が、どうして人間の小娘などに」
「それ以上言うな」
穏やかであったソウハが低く言い放った。その声には、怒りだけではなく悲しみも混ざっていた。
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