第39話 人魚レイハ
「ありましたね」
見つけたのは、古い地図と新しい地図に記される明鏡泉と呼ばれる泉の看板だ。見るからに古く、蔦や日焼けで読みづらい。
まだ昼過ぎほどの時刻のはずだが、木々が鬱蒼としていて暗く感じる。
翠雨がそっと手で蔦と葉を避けて、しっかりと確認する。
「めいきょうのいずみ。この看板を追っていけば着きそうですね」
看板の矢印は左を示していた。けれど、長らく人の手が入っていないようで、おそらく左だろう、という印象だ。翠雨はそう言って地図に印を付けて進む。相変わらず迷いがない。
ついた場所は、想像以上に神秘的な光景が広がっていた。
透き通った水は、底が見えそうだ。と思って覗き込んだ香月は、前言を撤回したくなった。底が見えないほど深い泉だった。
「翠雨、落ちないように気を付けなよ」
顔を上げようとした時、香月は覗き込んだ泉の中に、確かに影を見つけた。
「翠雨、結構大きな影が見えたんだけど」
魚というには大きな影が過ぎった。ヒレではなく、二本だけ細く長いものが見えた。
しかし天女のように異様な存在感は無く、自然動物のようにそこに存在している。見間違いではないかと疑ってしまう。
「そうですね。私にも見えますよ」
翠雨の視線を追えば、反対のほとりに座っている人がいた。
香月は目が悪くない。しかし自分の目を疑ったため、目を凝らした。女性だろう姿だが、足の代わりに魚の尾が付いている。人間が足をバタバタと動かして遊ぶように、魚の尾を動かして泉の水面を揺らしている。
香月としては、思いの外すぐに見つかって拍子抜けだ。
「妖は普通にそこら辺にいますよ。見えていないだけで、彼らもこの世界で普通に生活しています」
「そう、なんだね」
それ以上の言葉が出てこない。驚きやら戸惑いやら、形容し難い感情だ。色々混ざって複雑なこの気持ちは、初体験だ。
「ねえ、八重って子がここに来ませんでしたか?」
翠雨は街中で道を尋ねるが如く自然に人魚に声をかけた。人魚も驚いて固まっている。
「すいませんお姉さん。この子、あまり常識が無くて」
「覚えていますよ」
翠雨のフォローに入った香月に被せるように、人魚は答えた。非常に冷たい人魚の表情は、ただ人間が嫌いという単純なものではないと思わせる。侮蔑や拒絶だけかと思ったが、様々な人間と関わってきた香月はもしかしたら、と気になった。
(この人魚は……。いや、思い込みだろう)
ここまで負の感情を表す者がそんな感情を持つとは思えない。
「八重は、同胞を死に追いやった元凶ですから」
死という強い言葉に、香月は思わず翠雨を見る。翠雨が何を考えているかは、横顔からは窺い知れない。
八重が死んだわけではなく、人魚の同胞、つまり人魚の方が死んだ。
そこまで考えて、香月は自身の固定観念を捨てようと思い至る。この少ない情報で真実を見極めようとする部分は、やはり研究者気質である。しかし、あまりに少ない情報で答えを導き出すことは、研究者気質などという志高いものではく、単なるエゴや愚かと同義だ。
先入観を捨てて、事実と可能性を並べる。
同胞が死んだと語る人魚の言葉には、八重が死んだのか生きているのかは出てきていない。確実なことは、同胞、人魚が一人以上死んだことのみだ。
「あなたたちは八重の仲間ですか? まあ良いでしょう。気になるのなら話します。兄のソウハがこの世を去った話を」
軽蔑するような視線を向けていた人魚は泳いでこちら側のほとりまでやって来た。赤毛混じりの波打つロングヘアーを絞ってこちらを向いた。
「わたくしはレイハ。なけなしの頭脳で覚えておいてください。兄、ソウハは気高き人魚の中でもとりわけ美しく聡明な方でした」
話し出すレイハは外国の絵画のように美しく、憂いを帯びた姿すら、神秘的に魅せる。
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