第35話 勝五郎

「香月先輩、起きてください」

時刻は十時。いつもより寝過ぎたのだと、香月はスマホを開いて気が付いた。

「目覚ましの音がうるさい。音を止めに来たら先輩はうなされている。起こしたことへの文句は受け付けません」

いつものように不機嫌そうな表情で言った翠雨は、昨晩のことを覚えている様子はなかった。

「今日は八重さんが出会ったという妖を捜しに行きます。体調が悪いのなら私一人で行きますので」

準備万端といった様子の翠雨は襖を閉める時に小さく呟いた。

「無理はしないでください」

翠雨も変わったのかもしれない。

「俺は大丈夫だよ。準備をしたら行くから、外で待っていて」

香月は洗ってもらったハンカチが消えたことが気になった。

服を着替えた香月は、一度、家政婦にハンカチの行方を聞いた。

「ハンカチはこれからアイロンをかけるところでございます」

神経質そうな家政婦は俯きがちに答えた。香月はすぐにハンカチを引き取り確認した。

どこにも変化がない、見慣れたハンカチだ。

「そのハンカチ、そんなに大事ですか」

斜めがけのバッグにジーンズとティーシャツ。その上にパーカーを重ねた翠雨が声をかけてきた。外で待っていて、と伝えたにも関わらず翠雨がやって来たことに、感慨深いものがある。

「このハンカチを見ると、すごく苦しくなるんだよ」

「じゃあやはり捨てるべきでは?」

「いや、それ以上に愛おしくもなるんだ」

呆れた表情の翠雨は、ハンカチを見つめる。香月からハンカチを奪い、勢い良く香りを嗅いだ。

「翠雨は変態なのか」

「知識がないなら黙っていてください」

ヒトガタを取り出した翠雨は、呪文を発した。

「おん、さん、ざん、さく、そわか」

線香の香りが漂うと、ヒトガタが風に乗り地面へ落ちる。すると薄桃色の着物の女性が現れた。瞳の色も薄い桃色に見える。

「勝五郎様、こちらへ来ては、いけません」

涙ながらに発する女性から、それ以上の言葉を聞き取る前に、かき消えた。

「悪いモノではなかったようですね。力が弱く、これ以上彼女の姿を見ることは叶いません」

薄桃色の女性に、ハンカチよりも強く感じるものがあった。けれど、自分の人生にあのような女性の記憶はない。

翠雨は斜めがけのバッグから線香の束を取り出した。

「彼女も、妖怪なの?」

落ちたヒトガタを手に持つ線香の束でゆっくりと燃やしていく。翠雨は灰となったヒトガタを見送り、立ち上がる。

「先ほどの呪文は悪いモノの浄化の意味があります。勢至菩薩の救済の言葉ですので、悪いモノは追い出します。しかし私も悪いモノが憑いているとは思っていません。ハンカチから追い出されたモノにその意思があればヒトガタに宿るだろうと考えました。付喪神の一種だろうと思っていましたが、女性はかつての持ち主の可能性もありますね。しかも、貴方と縁のある誰かでしょう」

その言葉に頭をひねる香月であったが、一切の心当たりがない。

「勝五郎と言ったか?」

勝五郎と女性は言った。自分の身内にそのような名前の者はいない。遠い親戚でない限り、ある程度は知っているつもりだ。

「君彦さん」

ドカドカと歩いてくるのは徹夜明けの君彦だ。これから寝るのだと言わんばかりに右目を擦っている。

「兄ちゃんの苗字は確か、葉沼って言ったよな。地元はどこだ」

「はい、葉沼です。葉沼香月。地元は箱根です。神奈川の箱根神社のすぐそばです」

君彦は頷いて自分の部屋へ案内する。君彦は、香月と翠雨を心配して栄吉の屋敷に泊まってくれたのだ。と言っても、部屋にこもって昨日あったことを資料にまとめていただけだ。

黙って付いて行くと文机の上には万年筆が転がり、畳の上にはファイルやら絵巻やらが散らばっている。

書類から見えた文字は、印象からは想像できないほど几帳面に並び、美しい形であった。香月は少々意外に思う。

「魂は土地と深い関係がある。勝五郎といえば箱根神社。別名、九頭竜神社とも言う。嬢ちゃんはさっきの言葉で薄々気が付いていたんじゃないか?」

そこまで聞いて香月も思い至った。

「飯沼勝五郎と初花伝説ですか?」

君彦は大きくあくびをして頷く。相当にお疲れの様子だ。

「真名、魂、土地。どれも人間にとって縁深く、そして強く縛られる。簡単にいえば運命だ」

香月は研究材料としては好きだが、自分がその中心に立つことに納得がいかず、半信半疑だ。翠雨との出来事があるので、今までの常識で判断するわけにはいかない。有り得るか有り得ないか、ではなく可能性と事実を冷静に分析しなければ。

「たまたま、似た名前で似た場所に生まれたというだけではないですか」

「偶然なんてないです。全て必然」

翠雨は強く言った。

「その通りだ。兄ちゃんは嬢ちゃんといて何か変わったんじゃないか? それは嬢ちゃんも同じだ」

香月は心当たりがある。大きな心当たりだ。

「不思議なモノが見えました。そして現実のような夢も」

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