第25話 清姫 ー初恋ー

目を覚ました翔悟は、視線が高いことに気が付いた。宙に浮いていることを理解した瞬間、手を動かしても足を動かしても影響がないことを確認する。

記憶を辿り、清姫の言葉を思い出す。

『あたしの記憶を見せてやろう』

意味のわからない現象が続いたせいか、今の状況にあまり驚きはない。

考えることを諦めた。こういう時は流れに身を任せるしか対処法がない。

辺りを見回せば、そこが初花と泊まった寺だとわかる。その寺は、自分の記憶の中よりも新しく綺麗な印象だ。

寺の前の道は、記憶とは違い交差点のようだ。初花と歩いたのは一本道で寺の入り口から見て右から左へと向いていた。

正面の道から若く美しい男性がやって来る。地図を片手に左右を見て首を傾げた。

「すみません。都への道はどちらでしょう?」

男性は寺の中を覗き込み、声をかけた。翔悟の体は自然に男性の近くへ移動した。

「はい。今そちらへ向かいます」

記憶より少し無邪気な声が聞こえる。

トトト、と軽い足音が近づいて来た。そして現れた姿は、花魁のような姿ではない。下ろした黒いロングの髪。薄いメイクは、顔の良さを充分に引き立てた。

「お待たせしました。旅のお方ですか? 目的の場所はどちらですか?」

清楚で純朴な少女が、お淑やかな笑みを浮かべる。

「都へ行きたいのですが」

袖をたすき掛けしていた紐を解き顔を上げると、男性を見た瞬間に目を見開く。男性も少女を見て動きを止めた。誰が見ても、二人は一目惚れをした様子だった。

「ここを左へ曲がった先ですが、その。もう日が暮れてきます。こちらでお部屋を用意するので、泊まって行ってください」

男性は頷く。男性は短く刈り上げた髪で、精悍な顔つきだ。

「私の名前は安慈。お嬢さん、君の名前は?」

「あたしは、清姫と申します」

清姫と安慈は庭を眺めて一晩語り合った。初めて会ったとは思えないほど馬が合った二人を、翔悟は微笑ましく眺めた。同時に、翠雨が二人のように語り合ってくれることはなかったと、心が痛む。

「……自分を見てくれないのなら、か」

心に過ぎった清姫の言葉を、肯定しかけた自分が恐ろしかった。

一方、清姫と安慈は唇を重ねる。二人はうっとりとした顔でお互いを見つめる。

「私は大事な旅の途中だ。君のそばにいたいけれど、この旅を途中で投げ出すことはできない」

清姫は唇を重ねて潤んだのか、安慈の言葉で潤んだのか。縋るように安慈の着物を掴む。

「あたし、ここで待っています。なので、旅が終わった時に、ここへ帰ってきてください」

頷いた安慈。縋る清姫。二人は再び唇を重ねた。

安慈は次の日に旅立った。安慈は一度も振り返ることはなく、反対に清姫は安慈の姿が小さくなっても、祈るように見つめ続けた。

そして五年の月日が経った。

幼さを残さない大人の女性へと成長した清姫は、連絡も寄越さない安慈へ不安を募らせていた。

「あたし、安慈様を捜しに旅へ出ます」

そう準備を整えていたある日。安慈は姿を現す。

待ち焦がれた想い人との再会は、秋刀魚のわたのように苦かった。

安慈の隣には、平凡な容姿の小柄な女性と、小さい男の子がいた。男の子は一歳ほどで、歩き方は少し頼りない。無邪気に笑う男の子と、穏やかな表情で見守る安慈と女性が、徐々に澱んでいった。

子供はどこか安慈に似ている。旅立った後、清姫に連絡を寄越さずあの女性と暮らしていたのだろう。清姫への甘い言葉は、いとも簡単に別の女性へ向いたのだ。

「あたしの、あの方への気持ちは? この数年間、どんな気持ちで待っていたか、お分かりですか?」

フラフラと三人へ近寄る清姫に、安慈は気が付かない。けれど一瞬、安慈の瞳には色欲が滲んだことを、清姫は見逃さなかった。

「ああ、まだあたしのことをそのような瞳で見つめてくださるのですね」

黒く澱んだ視界は、真っ赤に染まった。頭は沸騰しそうなほど熱くなり、心は萎えたように冷静になった。激情全てが頭に集まったようだ。

頭にねっとりとした声が響く。

『あたし以外にあのような瞳を向けるなんて、気色悪い』

言葉を思わず否定する。地面に倒れ、頭を抱えた。

「あたし、そんなこと!」

すると脳内に細長いモノが流れ込んできた。しゅるり、しゅるりと理性を縛り上げる。

『あたしに触れた手であの女性にも触れていたなんて、吐き気がするわ』

キリキリと理性が締め上げられる。悲鳴にも近い音が、耳の中で反響した。

『苦しいね。苦しいね。負の感情を押し込めることは苦しいね』

頭を抱える清姫から、庇うように女性は男の子を抱きしめる。そんな女性の手を握って、安慈は駆け出した。

「待って、安慈様。どうして、あたしを心配してくださらないの?」

頭を抑え、這いつくばりながら片手を伸ばす。

「トメ! こっちだ!」

女性の名前が頭に染み込む。黒い墨のように、じわじわと深く滲むように広がった。細長いモノは、また清姫に問いかける。

『あの口、気持ち悪いね。あの手、忌まわしい。あの目、不愉快だ』

細長いモノが言葉を紡ぐたびに、清姫の中で綺麗だった思い出に赤黒いシミが落とされる。

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