第22話 天津彦白妙命 ー指切りー

時計なんてない座敷牢で、どれだけ呟いたかわからない。

「こんなところから声がするわ」

小さい頃の八重が帰って来たのだと思った。八重よりも多少気が強そうだ。

「やえ?」

「私は茅」

彼女はペラペラと話を続けていく。聞いてもいない話を、ペラペラと。

「八重は私の叔母さんなの。十六歳でどこかへ行ってしまって、行方不明なの。私は茅。みんな、みんな退屈な遊びばかりでつまんない! あなたもつまらなそうね」

再び訪れた茅は天津彦の癒しとなった。

「みんな、みんなつまんない! シロタはどう?」

「八重はお前達の言うお姉ちゃんみたいな存在だった。もう来ないけど」

そういう言い方をしたら、きっと茅はそばにいると言ってくれる。打算で言ったことに、罪悪感はあるが後悔はない。苦しいなんてもうごめんだ。一人の辛さはもう嫌だ。

「お父様がシロタに会いたいって」

茅の言葉に、天津彦は固まった。

「僕を、覚えていない?」

自分たちで連れて来たのに、自分たちが閉じ込めたのに。

「僕が必要だから、役に立つから連れて来たんじゃないのか?」

もし自分がここにいることを思い出したら出してくれるのだろうか。思い出したら、茅が来なくなるのだろうか。

役に立つために、ここにいる。

無理やり飲み込んだ泥は勢いよく溢れた。

理由もなく閉じ込めた?

何の恨みがあるんだ?

忘れているのならば。

「かや、茅は僕といたい? みんなつまらないのだろ?」

もうヤケクソだった。今まで時間と、力と、心を砕いてきた。仕返しなんて気持ちは欠片もない。ただ、少しだけ、お礼が欲しかった。感謝が欲しかった。思い出して欲しかった。

冷や汗が出る。醜い自分が顔を出すと、止めることなんてできない。

心の奥から、欲望が雪崩のように押し寄せる。

「僕なら茅の好きな物をあげることができる」

口はペラペラと適当なことを連ねる。

「僕なら茅の好きなことができる」

口角は歪に上がり、瞳孔も開いているだろう。

「僕は茅の知りたいことを教えられる」

この子を手に入れたい。離したくない。

「僕は茅を失望させない」

一人くらい、僕に頂戴よ。

「僕は茅を一番大切にできる。だから、僕のお姉ちゃんになってよ」

茅は少し考えて、応えた。

「うん。私はシロタのお姉ちゃんになる。一緒にいよう?」

茅の伸ばした手を、震える手で掴もうと伸ばした。

緊張は極限まで高まる。

(あと、少し。あと少しで。あの子が、僕のモノにーー)

座敷牢の柱から手が出る。伸ばした手に、茅の中指が触れる。もう悲願の成就しか、見えていなかった。

(あと、少しで!)

バチン!

強く弾かれた。

「かや〜!」

「あ、私いかなきゃ。また来るね、シロタ」

あと少しで手が届いた。けれど茅は去って行く。

「置いて行くの? 待って、茅。待って!」

茅の背中が、入って来た扉へ消えて行く。茅が振り返り、微笑んで、扉が閉じていく。

思い出すのは八重が笑顔で扉を閉じたあの瞬間だ。

僅かに射し込んでいた光が消える瞬間、天津彦の頭は、座敷牢と同じ闇夜に落ちた。

「茅も、来なくなる? でもまた来るねって。大丈夫、大丈夫だ」

呟きは小さくなり、囁きほど小さくなった。体を縮こまらせて、孤独の恐怖に震えた。考えるのは、次にチャンスが転がって来た時に、離さない方法だ。

もう自分の体を抱き込む指先の熱が感じられなくなった頃。

「シロタ!」

天の救いのように茅の声が降って来る。

「かや、なのか?」

「ええ、また来たわ。約束でしょ?」

次、この小さな手を離したら、もう来ないかもしれない。どうしたらここに留めておけるのだろう。答えなんて、とっくに出ていた。

「茅は、僕のお姉ちゃんになってくれるんでしょ?」

人間の望みを叶えるだけでは、手に入らない。茅の中で自分が必要な存在であるということを示した上で、天津彦の中の茅の存在意義を伝えること。

「うん!」

今度は、茅が先に手を伸ばした。

「じゃあ約束しよう。ここにずっといるって」

自分の手が出る限界まで伸ばした。茅は首を傾げながらも天津彦の手を取る。

「指切りげんまん」

「嘘ついたら針千本の〜ます!」

茅が言い切った時、再びバチンと響いた。天津彦に衝撃はない。

「あれ?」

天津彦の声か、茅の声か。

茅の体は座敷牢の中だ。

「これでずっと一緒だね」

天津彦の微笑みに茅は柱へ近づく。伸ばした手は、天津彦と同じくバチンと弾かれた。

「私はここから出られないの?」

茅の声が不安げに聞こえた。

出られないと言ったら、彼女は泣くのだろうか。

天津彦はもう一人じゃない。けれど茅が寂しくないはずはなかった。間違ったことをした、その自覚はある。それでも自分は一人になることが嫌だった。茅と約束をした瞬間、自分は決心したはずだった。後悔のない選択だった。そう思ったのだ、思ったのに茅が泣くかもしれない事実が今は、自分が一人になることより嫌だった。

「茅、ごめん。僕――」

茅の表情に、ようやく目が覚める思いだった。けれど、もう後の祭りだ。

「私はもう学校に行かなくていいの!?」

狭かったはずの部屋で茅は喜び舞った。

「あんな退屈な場所に行かなくて良いなんて最高!」

その言葉が嬉しいはずなのに、自分がどんなに間違ったことをしたのか、否が応でも思い知らされた。

「お前、出て行けよ。僕が間違ったことをしたんだ。お前は人間で、僕は人間じゃない。人間が人外と暮らすことは普通じゃない。だから」

「シロタまで普通、普通って言うの!? 普通じゃないといけないの? 普通ってなに? 変わっていることがそんなに悪いこと?」

茅が涙目で訴える。確かに自分は間違ったことをした。けれどこれ以上、茅を泣かせたくなかった。周りが見えなくなっていた天津彦が悪いのだと、今ならはっきりとわかる。

「ごめん茅。僕は茅に普通であれと言いたいんじゃない。茅が人間の世界に戻れなくなることが怖いんだ」

茅は濁った瞳でシロタを見て、コテンと首を傾げる。

「どうして? シロタとずっと一緒って約束したじゃない。ずっと一緒なら人間の世界に戻る理由なんてないでしょ?」

茅の目は徐々に人間ではなくなってきていた。この部屋の呪いのようなものが作用したのかもしれない。このままでは本当に彼女は人間に戻れない。

悪いことをしてしまった。けれどまだ取り返しがつくかもしれない。

そんな甘い考えが、打ち壊された。

どれだけのことをしてしまったのか。

これは後悔などという生易しいものではない。結果を知って、ようやく自分の行いがいかに愚かなものだったかが理解できた。

「ごめんなさい。ごめんなさい」

隅でうずくまって頭をかかえる。ただひたすらに謝罪を繰り返した。

「どうして謝るの? 約束でしょ?」

横にしゃがみ込んで覗き込む茅は、天津彦が好きだった人間の瞳ではなくなっている。

徐々に低くなっていく茅の声も、虚のような瞳も見たくない。目を強く閉じて、耳を塞ぎ、同じ言葉を繰り返す。

こんなつもりじゃなかった、なんて言葉ではどうにもならない。自分はなんのためにここにいたのだろうか。なんのために彼女をここに繋ぎ止めたのだろうか。もうなにもわからない。

「ごめんなさい、僕が悪かったです、誰か茅を助けて……!」

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