第21話 天津彦白妙命 ー山彦ー

天津彦白妙命。彼は古よりこの名を与えられた。

元々はただ山に住み着く山彦という妖怪だった。

人の声が好きだった。日々入れ替わり、質や声色が変わる様子が見ていて楽しい。悪戯心で人の声に返事を返す日々を送っていた。

「町は水が枯れ、我々は脱水し人々は死んで逝きます。どうか温情を!」

山彦はいつものように声を返しただけだった。

しかしその返事が神の声だと勘違いした人々は彼を天津彦白妙命と呼ぶようになり、祠を作った。

人々に信仰され、愛と名前を得た山彦は小さな、小さな神となった。

神となった天津彦は人の言葉がわかるようになった。神の力も少しずつ身に着けた。

祠から見える町が好きになった。祠が誇らしいと思うようになった。

月日が流れ、小さな神は立派に町を護っていた。

けれど時代が変われば人々の気持ちも変わる。

信仰が薄れ行くと同時に、天津彦の力も衰えた。神の力で形を保ってきた町は、当たり前のように衰退した。

どこの誰の入れ知恵か、人々は町を守るために神を閉じ込める方法を見つける。

「天津彦様ー!」

久方ぶりに呼ばれたと、喜んだ天津彦は足取り軽く向かい、簡単に閉じ込められた。

暗く狭い座敷牢で、訪れる者もおらず、人々の様子も見えない。どう足掻いても出ることは叶わない。

「寂しい、怖い」

呟きは唯一の音だった。呟いていなければ、不安と絶望でどうにかなりそうだった。

「なんで僕が」

気持ちを言葉にしていくと、どんどん溢れてくる。

「頑張ってきたのに。どうしてこんな仕打ちを。憎い、憎い」

出てくる言葉を呟くほどに、負の感情に支配されていく。

大好きだったから力になった。力になったのに、閉じ込められた。

神であっても元は妖怪で、人間ではない。人間の気持ちを理解することなどできるはずがなかった。

(いっそ、愛さなければ)

呪いの言葉が溢れる、寸前。

「こんなところから声がするわ」

小さな女の子が暗く狭い部屋に現れた。一度は愛した、人間の姿だった。

「あなたはだあれ」

「お前こそ誰だ」

芽生えた憎しみと、かつて覚えてしまった深い愛情を、天津彦すら飲み込めていなかった。

最初は冷たく接していた天津彦だったが、少女がやって来ることが当たり前となってしまえば、期待してしまう。

「あの子はまだか?」

そう呟けば、少女はすぐにやって来る。

恨み言ばかりだった天津彦の言葉に、希望が宿った。人間への愛を思い出した天津彦だが、少女は次第にやって来なくなる。

「学校に通うの」

ようやくやって来た少女は無情な言葉を吐いた。

学校へ行くから、来られなくなる。

そうだ、人間の生活は変わったのだ。そう納得するが、一度思い出した人の温もりは、なかなか忘れることはできなかった。

「シロタ! あなたにお礼を言いたかったの!」

大きくなった少女は、頻繁には来なくなったけれど、足を運ぶことを止めなかった。

会話には様々な知識が増えていく。そして、天津彦をシロタと呼ぶようになった。

「あなたのおかげで素敵な方に出会ったわ。人、ではないのだけれど。私は彼の元へ行くわ。もう来られなくなるかもしれない。ごめんさない」

天津彦にとって、唯一の楽しみだった少女が、もう来ない。

人間への愛情はいとも簡単に憎しみへ変わる。そのことを天津彦はわかっていた。けれど愛情を捨てることもまた苦しい、ということを知っていた。

寂しさも苦しさも押し殺して、天津彦は笑った。

どれだけ無情でも無慈悲でも、愛した『人間』という生き物は変わらない。

天津彦の献身が裏切られても、愛への返事が心無い言葉でも。護ると誓った天津彦の心は変わらない。

今はまだ納得できなくても、割り切れなくても、選ばれた時の感動は喜びは、彼らに伝えられていない。

「八重がそれで幸せなら」

ここにいるだけで、彼らの役に立てるのなら良いじゃないか。弱まった力が、まだ役に立つのなら良いじゃないか。

自分は彼らに選ばれた神なのだ。そう、自分に言い聞かせて。

笑う彼女のきっかけが、自分であった。それだけで良い。それだけでーー。

「もう来るなよ! お前は人間で、ここはお前がいて良い場所じゃない。できれば、もう来るな」

冷たく突き放した天津彦に、八重は笑った、幸せそうに。

八重と過ごした刹那の思い出があれば、今の八重の笑顔があれば、ここの時間も少しは色付くだろう。

また一人になった天津彦は、八重の笑顔と彼女の幸せを願うだけの日々に変わった。そうしてまた呟く。

「八重が幸せになったなら、それで良い。それで」

想像じゃない、本物の笑顔が見られた。けれどこれから続く永い時間の途中で、いつかこの笑顔も、薄れて霞んで色を失うだろう。

その予感は、簡単に当たってしまった。思い出や温かい時間は、その分だけ失った時の穴を大きくする。楽しかった分だけ、寂しさが募る。

「きっと、八重は今も、幸せで」

声が徐々に掠れていく。声が徐々に、震えていく。

「八重が、幸せなら……それで」

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