第18話 飯沼翔悟 ーまたその瞳に映るまでー
翔悟は、翠雨の入学式当日を楽しみにしていた。
今度はクラスメイトの協力を断り、自分できっかけを作ろうと考えている。翠雨と初めて話した日のように、勇気を出そうと。
いつもより遅くまで眠れなかった前日の夜。いつもより早く起きてしまった当日の朝。
翠雨はいつも通り翔悟の神社に訪れるのだろうかと、境内で彼女を待った。
落ち着かない心に、以前は動揺していた翔悟だった。けれど今は、そのコントロールの効かない感情を愛おしくも感じている。
早く会いたい。
胸に手を当てて微笑んだ。友也とクラスメイトの応援で自覚できた気持ち。今度は自分で動く番だと気合を入れる。
深呼吸をしたすぐ後に、遠くから小さく足音がする。この時間に聞こえる足音など少ない。期待する心が甘く疼く。
足音は参道に向かっている気がする。気が付いた時には、翔悟は駆け出していた。
翔悟の足が速く進むごとに、気持ちも昂る。
鳥居の前で曲がろうとした時、影とぶつかりかけた。思ったよりも足音は近くに来ていた。
「申し訳ありませんでした」
一瞬だけ見開いた瞳は、見覚えのある夜空色だ。しかしその瞳は驚きだけで、翔悟は映っていなかった。
誰も映らない瞳に感情の乗らない声。翔悟が怯んだ隙に翠雨は一度頭を下げて本殿へ向かって行った。
「待って翠雨!」
翔悟は去って行く翠雨の後ろ姿に、小学生の頃の後悔が頭を過ぎる。
反射的に動く体に、翔悟自身が驚いた。けれど最初の声が出たことが嬉しかった。
掴んだ腕を離す。
「ごめんね。痛かった?」
訝しんだ視線を覚悟したが、翠雨は無表情だった。翔悟に対して感情の一切を持っていない、と事実を突きつけられたようで、翔悟は眉を寄せる。
せっかく出た一言に続く言葉がすぐには見つからなかった。
「いえ別に。もうよろしいでしょうか」
自分があの日を忘れられないように、翠雨も翔悟を覚えていてくれる。そんな淡い期待を抱いていた。
それでも、少しでも興味を持って欲しい。少しでも記憶に残して欲しい。そんな気持ちが翔悟を突き動かした。
躊躇ったことを後悔したあの日を、繰り返してはならない。あの日には出てこなかった声を、絞り出す。
「僕は飯沼翔悟。翠雨のことが好きなんだ! また声をかけても良いかな」
翠雨は表情を微塵も動かすことはなかった。なにも響いていなかった。翔悟の勇気は翠雨の心に届かない。
「そうですか」
「ありがとう、翠雨!」
悔しいはずだった。記憶にも残っていない。興味もない。視線も関心も向けられなかったことが。けれど、自分の言葉に返事が返ってきたことが、想像以上に嬉しかった。
翠雨には届かなかった勇気は、確実に翔悟の希望として、次に自分が出す勇気の糧になった。
今思えばあの日だけだった。
正面に立って会話をしたことも、翔悟へ向けた言葉も、あの日だけだった。
見つめるばかりの日々に、会えない日々。
ようやく話しかけることができるようになった。自分へ向けた言葉が返ってくる。嬉しくないはずがなかった。
「……これからゆっくり僕を見てくれるように頑張れば良い」
遅くなったけれど、これからは翠雨を一人にしない。ようやく覚悟が決まった。
「面白い記憶だね」
ニヤリと微笑んだ清姫の瞳からは、一筋の雫が溢れた。
月の綺麗な夜だった。
思い出すのは、今見た記憶ほど純粋でも清廉でもない、醜く爛れた自身の悲しい恋の話。
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