第12話 夢現 ー壱ー

「申し訳ございません。役立たずで、申し訳ございません」

目の前で土下座をする女性。桜色の着物は、泥に塗れている。そんなことすら、瑣末なことと思っているのか、熱心に地面に頭を擦り付けていた。どこか震えているようにも見える。

香月は風になったかのように軽い自分の体に、言うほどの驚きや疑問を感じなかった。今はただ、熱心に頭を地面に擦り付ける女性に顔を上げて欲しいと思う。けれど気持ちとは裏腹に冷たい言葉が聞こえた。

「役割すら満足に果たせないお前は必要ない。私は言ったはずだ。差し違えても、と」

女性は一切の弁明もせず、ただ謝り続ける。

男性の声で聞こえた冷たい言葉は、自分の声ではない。しかし、自分が発したように間近で聞こえる。記憶にはないが、自分の発した言葉であると確信もしている。

「申し訳ございません。申し訳ございません」

まるで壊れたレコードのように同じ言葉を続ける女性は、怯えているわけでも言わされているわけでもなさそうだ。真剣な謝罪の気持ちが感じられる。

「今からでも奴を殺してこい。そうしたら、多少は価値があったと言ってやる」

また自分が言ったと確信できる言葉が放たれた。それでも香月の意思は言葉に影響しない。

女性は謝罪の言葉を途切れさせた。

「一つ、よろしいでしょうか」

「遺言と思って聞いてやる。言ってみろ」

今にも腰に帯びた刀で女性を切りつけそうな勢いだったこの言葉の主は、少しは慈悲というものがあったようで、緊迫した雰囲気の中で少し安心した。

「左足は、左足の具合はいかがでしょうか」

視線はこの体の左足へ向く。包帯の巻かれた左足は、ついさっきまで良く動くとは言い難いほど痺れていた。感覚はないけれど、確定事項のように『そうだった』とわかる。もはや麻痺に近い状態だったはずだ。だが、今は感覚のなかった左足は痺れが取れ、膝で曲げてみても十分なほど動く。

「なぜだ、左足が動く」

「さようですか。……ならば、わたくしは充分でございます」

初めて顔を上げた女性は思いの外、幸せそうだ。涙で濡れ泥の付いた頬は嬉しそうに桜色を帯びている。微笑んだその姿は涙が溢れるほど美しい。

開いた瞳は、忘れられないほど綺麗な桜色。

「お役に立てず申し訳ございませんでした。御前様に救われた命であったにも関わらず、助けていただいてばかりで、なに一つお返しすることができませんでした。死してまた命を賜ることがございましたら、必ず。今度こそは必ず、御前様のお役に立てるよう最善を尽くします。ですので、もう一度だけ、貴方のおそばにおいてくださいませ」

徐々に霞む体。最後まで気丈に微笑み続ける女性。

体は叫んでいた。

「――!」

初めて感じた、恨み以外の感情。この人生は負の感情ばかりだった。それでも恨みさえあれば生きて行けた。しかし、この後悔だけは、抱えて生きるには重すぎた。


ぴちち。

都会では聞かないほど清々しい小鳥の鳴き声で目が覚めた。障子と襖で薄暗い部屋が、今は居心地が良い。

いつもと天井が違うと思ったが、香月は翠雨と共に君彦の家に泊まっていたのだと思い出す。

寝起きの良い香月は、数年ぶりに寝覚めが悪かった。体の疲れも満足に取れていない。重くだるい体で寝返りを打った。

起きたらすぐに状態を起こして伸びをするルーティーンも、今日ばかりは行う気力がない。

心に渦巻く不穏な感情の正体がわからないことも、スッキリしない原因だろうか。そんなことを考えて布団から出られずにいると、大きな声が響く。

「おーい! 起きろ、兄ちゃん!」

ドタドタと足音が近づいて、スパンと襖が開く。薄暗かった室内に光がさした。

「朝飯の前に畑へ行くぞ! 春キャベツを取ろう! 朝飯は味噌汁だ!」

「君彦さんおはようございます。今、何時ですか」

「ああ、おはよう。今は四時四十七分だ。良い朝だな」

朝の太陽のように輝き、清々しい空気のように爽やかな笑顔だった。

「あの、着替えるので少し出ていてもらえますか」

「おおそうか。玄関で待っている。動きやすくて汚れても良い服を着たら来てくれな」

元々、香月は歩き回ることを想定した服を何着か持っていた。何日仕事になるのかわからなかったため、服はたくさんある。畑仕事は土汚れが付くだろう。濃い色の服を取り出した。部屋着を脱いだ時、ふと部屋の空気を入れ替えようと窓に近づく。

障子を開くとどんよりとしていた空気が一気に外へ飛び出した。

香月は、まるで異世界に来たような感覚になる。悪い感情ではない。今までの厭世的な思考が、全く別の色で塗り替えられるような、心に溜まった黒いモノがするすると抜けていくような感覚だ。その黒いモノの抜けた跡にはこの空気のように清浄なモノが違和感を流していく。

「さむ」

起きた時の後味の悪さがリセットされたようにスッキリとしていた。悪いモノが抜けた後には体の状態が気になる。上半身になにも着ていなかった香月は、まだ暖まっていない空気に体を震わせた。上を黒い七分丈のカットソーに、下を茶色のジャガーパンツに替えて部屋を出た。

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