第11話 踊る天女

時刻は二十時半を過ぎた頃。

香月は咲子と夕食の後片付けをしていた。咲子は終始ご機嫌で、色々と話をしてくれた。あの旦那にこの妻ありと言ったところか。

「君彦さんはね、昔っから夢みがちというか、オカルトが大好きでね。私は幼稚園からずっと君彦さんと一緒なのに、全然相手にしてもらえなかったのよ。でも、誰も信じないような話を、真剣に聞いてくれて信じてくれる君彦さんは、本当に優しくて純粋な人なのだなって思っていたのよ」

頷きながら聞いていた香月は、もしかしたら咲子も、翠雨には妖怪が見えるという突拍子もない話について知っているかもしれないと思い至った。

「俺もそう言った不思議な話には目がないんですよ。妖怪や幽霊が見える人は、本当にいるのか、なんてことを考えてしまいます。くだらないとは思っても、俺も研究者の端くれとして、やはり気になってしまいますよ」

そう、遠回しに聞いてみた。咲子は細い糸のような目を香月に向ける。洗い物で泡だらけの手を顎に沿わせて、考えているようだ。

「そうねえ。私はくだらないとは思わないわ。私はそういうものに詳しいわけではないけれど、全くない、とは言い切れないんじゃないかしら」

「と言うと?」

「だって、今じゃあまり見ないけれど、田舎町などへ行けば、そういう不思議なものや見えないものを信仰する場所はあるでしょう? 全くないものを生み出すことなんて簡単じゃないわ。きっとそこに信仰するだけの理由、出来事があったはずだと思うの」

咲子の話は一理ある。つまり翠雨も、見える見えないは別として、見えると言われる原因があるはずなのだ。

手が止まっていることに気がつかない香月を、横でクスッと笑い、咲子は洗い物を終えた。

「香月君、洗い物のお手伝いをありがとう。ずいぶん助かったわ。お風呂の順番はもうすぐだと思うから、お部屋でゆっくりしていて。空いたら呼びに行くわ」

割烹着で手を拭いた咲子は、君彦用と思われる日本酒とお猪口を取り出す。

「途中でボーッとしちゃってすみません」

「良いのよ。悩めるお年頃でしょう」

咲子はクスクスと笑って台所を去って行った。

香月は手洗いへ寄った後、ぼんやりと縁側で月を眺めている。

子供時代に、不思議な体験をすることは、別に少なくない。おかしなものを見たとか、不思議な声を聞いたとか。誰しも、長い人生を生きていれば不思議な体験の一つや二つ、ない方がおかしい。

ただし、その多くは知識不足や思い込みが原因と言える。たとえば、かつて虹は水神や龍が通った跡だ、と言われていた。光の屈折と知らなければそれが不思議なものだと感じてしまう。つまり知識不足が原因の思い込みだと言える。

知らないものは恐ろしい。なにか辻褄の合う原因を探すのも人の性だ。

「きっと幽霊の仕業だ」

「おそらく妖怪のイタズラだろう」

そう思うことで辻褄を合わせ、未知の存在を作り出し、思い込む。そういった出来事も多いと言う話だ。

が、全てがそうと言ってしまうことは非常に危険だとも思う。その中に幾つ真実があるとも限らない。

七つまでは神の子。

そう言われるように、幼い子供が特に不思議なものに出会いやすいことも事実だ。

翠雨はどちらのパターンか。学のない子供の思い込みか、妖怪が見えていたのか。

「私について、咲子さんに嗅ぎ回ったようですね」

月は先ほどよりも僅かに西に傾いている気がした。考え込んでいたのは、香月が思っていたよりも長い時間だったようだ。

声が聞こえたことにようやく意識が向き、振り返ると翠雨が立っていた。

おそらく高校時代のジャージを着ている。青地に白のラインが入った、お世辞にも洒落ているとは言えないデザインだ。肩からかけているのは、香月と翠雨が通う大学のオープンキャンパスで配られる薄く肌触りが悪く、おまけに吸水機能も良くないタオルだ。そんなタオルで髪を拭いているから水が滴り落ちている。

「春とは言えまだ夜は冷えるんだから、こんなところで立っていると湯冷めするよ」

翠雨は右手でタオルを掴みわしゃわしゃと拭っていたが、面倒臭くなったのか、タオルを肩にかけて距離を置き座る。

「心配はいりません。別に風邪を引いても問題はないので」

「お前は……まあ、良いよ。早く部屋に入りな。本当に風邪を引けば明日に障るよ」

「……うざ」

「なに? 先輩としての忠告だけど?」

言葉を残して立ち上がった翠雨に、香月はため息を吐いた。女性に甘く、寛容な香月は、翠雨にのみ感情が揺さぶられる。苦手意識だろうと思い、関わらないようにしてきたが、視界に入れば気になる。いないといないで気になり、手を焼いてしまう。

やはり、翠雨について来なければ良かったか。そう思いはするが、女性を一人旅へ行かせることは紳士的な香月としては許容できなかった。

まだ背後に気配がする。まだなにか嫌味でもあるのか。

「まだ部屋へ行ってなかったの?」

振り返ると、天女のような女性が裸足で立っている。黒いポニーテールが揺れた。

『ふふふ』

パタパタと翠雨の部屋とは反対方向へ踊るように羽衣を揺らして駆け出す。

衝撃的すぎて体が動かない。恐怖心ではない。まるで取り憑かれたように女性を見つめてしまい、目が逸らせない。足音は遠ざかり、角を曲がった女性の後に、薄桃色の羽衣がふわりと舞った。

『おやすみなさい、愛し子よ』

口を動かしていないのに聞こえる声。それも頭の中に直接流れ込んでくるような不思議な感覚だ。

女性は曲がった角から頭だけ出して笑うと、完全に死角へ消えた。

その時ようやく体が動き始めた香月は、急いで角を曲がり女性の姿を捜した。もちろんそこに人影はおろか、気配一つ感じなかった。

香月は不思議な体験が、自身の思い込みか知識不足か、はたまた本当にあった出来事か。精査をするため自室としてあてがわれた部屋へ向かった。

風呂の中でも考えた結果、やはり事実であると判断した。

結論が出て安心した香月は、布団に潜り込む。想像以上に体は疲れていたのか、一瞬で意識は夢の世界へ旅立った。

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