第10話 西田咲子

「嬢ちゃんの両親はな、民話や妖について研究していたんだ」

翠雨の父と母は君彦の後輩だった。

父、敦と母、智枝は意見の不一致が多く、初めは犬猿の仲とさえ言われていた。二人の先輩であり上司だった君彦は、仲裁に入り火の粉が飛ぶこともしばしばあった。

「逆に言えば、初めから本音でぶつかれる仲だった、つまり相性が良かったんだろうな」

快活に笑った君彦は続ける。

会えば喧嘩、話せば喧嘩。顔を見るだけで喧嘩の二人は、次第に歩み寄りを覚え始めた。

きっかけは、君彦と敦、智枝が共同で進めることになった研究だった。

「俺なんか蚊帳の外で、二人で永遠に話し続けてんだ。研究が終わった頃には、結婚するから研究室を出るって言うもんだ。俺だけ一人で残されるなんてたまったもんじゃねえよ」

赤信号で車が止まり、くるりと振り返った君彦は、カッと笑う。

「まだ三歳くらいの頃か? 研究室にあいつらが嬢ちゃんを連れて来たことがあったんだ。覚えてねえよなあ。俺もその後すぐに引っ越したしな」

「お話はよく聞いていました。なので、今回は君彦さんに連絡をさせていただいたんです」

いつもは人の目を見て話さない翠雨が、君彦の笑顔を受けて、僅かに口角を上げたように見えた。

「で、今も見えるのか? 妖」

翠雨の表情が凍りついた。香月は驚いて翠雨を見つめる。君彦は特別表情が変わった様子はない。

「俺が嬢ちゃんに初めて会った三歳くらいの頃にも、誰もいないところを眺めたり遊んだり。研究者としては興奮したよ。確信したね。やっぱり妖はいるんだ! ってな」

翠雨の顔色は悪くなるばかりだ。

「まあ、今も見えようが見えまいが関係ねえよ。嬢ちゃんは嬢ちゃんだし、今回は情報の代わりにうちのお偉いさんの問題を解決してくれりゃこっちも文句はねえ」

「情報の代わり? 君彦さんは人魚について何か知っているんですか?」

「俺も伊達にここで研究しているわけじゃねえ。というか、嬢ちゃんはなんのためにこの色男を連れ歩いてんだ。なにも話してねえじゃねえか」

「……聞かれていないので」

声は平静を装っている。ここでは詳しく問いただすべきではなさそうだ、と香月は判断した。

「聞いたけど教えてくれなかったのは翠雨だよ」

すでにいつも通り、口数が少なく表情の変わらない翠雨に、香月はホッとする。やはり君彦の軽口なのだろうと納得した。

けれど、翠雨の額には汗が滲んでいた。窓から外を眺めるように頬杖をついていることもあり、翠雨の緊張と不安は、香月にも君彦にも伝わらない。翠雨自体に、隠す意思があることも、二人は気が付かなかった。


移動時間はせいぜい二十分ほど。道中、見つけた駄菓子屋で翠雨は菓子を買い込んだ。

主にグミ系の物だ。チョコやラムネも幾つかカゴに放り込む。

駄菓子屋での買い物の時間を含めても三十分。

古い日本家屋の砂利の上で停車した。

「二人とも、今日はうちで休みな。明日、前払いでお偉いさんに話を聞きに行く。好きなだけ家にある資料を読んでいけ、と言いたいところだが。この町の重要な資料もあってそれは言えねえんだ。すまねえ。まあ、ゆっくりしていけ」

三人が車を降りると、カラカラと格子戸が開く。中から割烹着の女性が姿を現した。

「あらぁ、君彦さん。その子が知り合いのお嬢さん? 可愛らしい子ねぇ」

おおらかに微笑みながら、品の良い動作でこちらまで歩んでくる。

「お世話になります」

相変わらず翠雨は、行儀は良いが愛想がない。

「君彦さんの妻の西田咲子と申します。そちらのハンサムなお兄さんは、お嬢さんの彼氏さん? もう、君彦さん! 言っておいてくれないとお夕飯が準備できないじゃないですか」

「突然の訪問で申し訳ないです」

香月は咲子の手を取って苦笑いで詫びた。咲子はポッと頬を赤らめて動揺した。

「そんなつもりで言ったわけではないんですよ。も、もう! 君彦さん、私はこれからご飯を炊いてくるので、二人を客間へ案内してくださいね!」

可愛らしく動揺して格子戸の中へ慌ただしく入って行った。

「香月、その女の扱い方を今度教えてくれよ。咲子のあんな反応はしばらく見てねえな」

「女性は宝物ですよ。と言うより、君彦さんはさっき売れ残ったって言ってませんでした? 俺、凄く驚きましたよ」

「売れ残ったら、幼馴染の咲子が貰ってくれたんだよ。ありがてぇなあ」

香月は、もしかしたら君彦は天然なのかもしれない、と本気で思った。研究者にまともな人間が少ないことは知っているつもりだった。けれど知っていることと理解していることの差は、思いのほか大きいことを感じた。

「咲子さんは情けで結婚してくれたわけではないと思いますよ」

香月の目から見れば、咲子の献身さは深い深い愛情からくるものであると確信できる。

「あ? なんか言ったか?」

腕を組んで咲子の去った格子戸を眺めていた君彦の、その瞳からも深い愛情が見えるが、本人はさっぱり気が付いていないことを香月は察した。

「両片想いの時間が長いことも、あまり良いとは言えませんね」

香月は呆れた、と言外に言う。

「リョウカタオモイ? 若者言葉は疎いからなあ」

「死ぬ前には気が付くと良いですね」

「俺はまだそこまで歳とっちゃねえよ!」

ふと、香月の心が痛んだ。もやもやと心臓に霞がかかったような痛みだ。

――だれか、たすけて……。

悲痛な叫びが、うっすらと頭に響く。思わず辺りを見回したが、君彦はすぐ横にいる。翠雨も格子戸に入って行くところだ。どちらの声も聞き間違えるとは思えない。そして言葉の脈絡もない。

『で、今も見えるのか? 妖』

君彦の、冗談のような言葉を思い出す。若干の恐怖心と共に、香月は好奇心が刺激される感覚も覚えた。

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