第4話 連れ去られた彼 ー隠世ー
翔悟は見知らぬ場所で目を覚ます。江戸時代にタイムスリップしたような日本家屋にいた。
布団に横になっていたようで、体の上には温もりを感じる。上半身を起こして辺りを見回した。背中が妙に痛い。
布団は、いわゆる煎餅布団と呼ばれる物だ。硬い布団で眠っていたのならば、体が痛くとも無理はない。自分の家の布団はこんなに硬くはなかった気がする。枕は、くくり枕と呼ばれる物だろうか。どれも時代を感じる古びた物で、今や手に入れることも難しいのでは、と思う。
「あら、目が覚めたみたいやね」
高めの声は、非常に穏やかだ。声のした方を向けば、かまどでコトコトと料理をする女性がいる。大きな鉢を被っている姿は、異常だ。
翔悟は少し混乱していた。状況の理解ができてはいないが、自分以外に人間がいることで少し冷静になれた。冷静になれば五感も機能してくる。
粥のような香りに、古い家屋特有の木の香り。音も少なく静かだ。せいぜい煮ている鍋の音くらいである。
車の音もしない不自然さに気が付き、一気に肝が冷える。
ここで目を覚ます前の記憶も思い出してきた。
慌てて見回すが、やはり女性一人しかいなかった。黒い着物の女性はどこにもいない。
「それにしても、うちの前で倒れとるなんて、お兄さん何してはったん?」
女性は卯の花色の着物を着ている。鉢を被った姿は異様だけれど、どうにも口調が穏やかで、警戒心が緩む。事情を聞くなら彼女だろうか。
「質素なお粥でごめんなさいねえ。そうや、お兄さん服装も変わってはるし、どこから来はったん? まあええ、とりあえず食べて食べて」
茶碗の乗った膳を両手で運び、沓脱石で草履を脱いで土間から上がってくる。
「ありがとうございます。いただきます」
とりあえず、木の匙で粥を掬い、一口食べる。薄寒い視線を感じて翔悟は女性に目を向ける。
「どないしはりました?」
「……いえ、なにもないです」
その女性の声に、翔悟はおかしなところへ迷い込んだせいで気が立っていたと、口の中の粥を飲み込んだ。塩と卵、それにネギというシンプルな粥だった。味もかなり薄い。
「料理、ありがとうございます」
あまり美味しいとは言えない味であったが、好意を無碍にもできず微笑んだ。けれど嘘の吐けない翔悟は、口が裂けても「美味しい」とは言わなかった。
「それでお兄さん、道端で寝転んでどないしてはったん?」
「展望台で黒い着物の女性に引っ張られて、気が付いたら、ここに」
鉢を被った女性は頷いた。
「あらあら、展望台なんてこの辺にはないよ。そしたら、そや現世から来られはったんやねえ」
「ウツシヨ?」
翔悟は聞き慣れない言葉に首を傾げる。まるでファンタジー小説のように現実感のない言葉だ。
「そうやったなあ。今の現世じゃあ聞き慣れへん言葉やろ。私がちゃんと説明したげるから、そう不安そうな顔はせんといて」
現世とは、ゲンセと書く。要するに人間が主に暮らす世界。時折、幽霊や妖怪が訪れるが、それは様々な理由や条件がついてくるので、女性は割愛した。
現世と言う通り、他の世界も存在する。
翔悟と女性のいるここは隠世。黄泉とも高天原とも違う、妖怪の住む世界だ。ここ隠世は、現世と非常に密接な関係にある。そして一番の特徴は、現世、黄泉、高天原、桃源郷のどこにでも繋がっていること。
「隠世はな、ほいほい行き来できるわけやあらへんけど、条件満たせばどこへでも行けるんやで。お兄さんはどっかの強い妖に無理やり連れてこられたみたいやけど、大丈夫。ちゃんと帰れるよ。見たところまだまだ妖には成っとらへんから、長居せんかったらちゃんと帰れる」
粥を全て食べ終えると、木の匙を膳に置いた。空っぽの茶碗が、不安を煽る。ついに翔悟は弱音を吐いた。
「どうしたら戻れるんですか」
女性は重そうな鉢を揺らして翔悟の手を握った。
「まず言うておかなあかんことが一つある。それは、ただの人間が隠世へ来てしまったら、もうその時点で『ただの人間』ではなくなってまうこと。帰る方法はちゃんとある。教えたるから、まずは私の聞くことに答えて。そうしたら、その答えを忘れんようにしてや。私との約束やで」
翔悟は頷く。女性の目は見えないけれど、握られている手のひらから、責任感と優しさを強く感じる。意味のわからない隠世と言う世界に連れてこられた中で、初めに出会った人が彼女で良かったと、翔悟は思った。そして不安な中、ここまで親身になって話をしてくれる彼女に、ついて行こうとも。
「まずは、名前。これは口にしたらあかんよ。名前は、真名というて大事なものや。簡単に教えたらあかんし、忘れてもあかん。他を忘れても真名さえ覚えとったら、なんとかなる。とりあえず、にっくねーむっていうん? 呼び名を後で決めとこか」
翔悟は頷き、自身の名前を思い浮かべた。飯沼翔悟。しっかり漢字で思い浮かべることができて安心する。
「思い浮かべました。大丈夫です」
女性は次に質問をする。
「帰る場所、わかる? より具体的な方がええけど、家やなくても良いで。自分を待ってる人がおる場所とか、縁のある場所を思い浮かべてな」
帰る場所と言われて一番に思い浮かんだのは、翠雨の顔だった。彼女が翔悟を待っているとは思えないが、帰りたい場所は彼女の隣であることは明らかだ。
翔悟の真剣な表情を見つめた女性は「これが最後や」と言う。
「帰る理由はあるな?」
翔悟は迷いなく答えた。
「あの子に言うはずだった言葉を言いに帰ります。連れ去られた時、もっとしっかり気持ちを伝えていればと後悔しました。もう会えなくなっても、ちゃんと関係を変えたいって言えば良かったと」
女性は翔悟の顔を両手で挟み込むように掴む。
「今の言葉、忘れたらあかんで。迷ってもあかん。ここの世界の住人は惑わして迷わせて、この世界に引き摺り込もうとしてくる。自分は人間、帰らなあかん。そのことを忘れたらあかんよ。妖は人間とは違うんや。ええな?」
厳しい口調だった女性は、最後の言葉だけ小首を傾げて柔らかく確認した。翔悟はしっかり言葉を刻み込む。
「それでな、帰る方法やけど、お兄さん運がええなあ。ちょうど阿弥陀如来様がこの辺りに来てくれはったんや。今なら追いつけるかもしれへん。一緒に行こな」
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