第3話 天野翠雨

翠雨は人付き合いが苦手だ。

元々は明るく社交的であったが、それも本当に幼かった頃の話だ。

幼い頃は不思議なものを見た。変わり者だった翠雨の両親は、それが幽霊や妖怪であると興奮気味に説明してくれたものだ。

翠雨はその頃から、自分の見る生き物に興味を持った。

七歳になる頃には徐々に見えなくなったけれど、その不可思議な生き物への好奇心と探究心は心に残り続けた。

程なくして両親は事故で亡くなった。

翠雨の引き取り先は親戚だった。変わり者の両親を煙たがっていた親戚だ。真面目で常識的な家系に生まれた変わり者の両親は、異端児とも言える存在だったのだから仕方がない。

不思議なものを見て、幽霊や妖怪の話ばかりする翠雨は、それは気味が悪いことだろう。歳の近い子供も、親の嫌う子供には近づかない。翠雨を冷遇する親に倣って嫌がらせを始めることも、幽霊や妖怪ほど不思議ではない。

子供達は、家だけではなく学校でも嫌がらせをした。

明るく社交的だった翠雨が、暗く内向的になることも、やはり不思議ではなかった。

そのうち翠雨は感情を表に出せば、嫌がらせがエスカレートすることを学んだ。せめて、事を小さく納めようと努力をするようになる。

泣かず、騒がず、冷静に。落ち着き、クールに過ごせば子供達は翠雨への興味を失った。

仲良くしてくれた友達も、無視をされれば良い方で、虐めの被害者になった。庇ってくれた友達が保身で虐めの加担者になったこともある。

人に興味を持たない。人に期待をしない。人と関わらない。そうしたら傷付くこともない。感情が凪いでいく感覚は、中学に上がった頃には慣れていた。

心の平穏に安心感を覚えた頃、その人は現れた。

彼は翠雨に声をかけた。その頻度は日に日に増していく。

しつこい、鬱陶しい。久々に心が動くのを感じた。心の平穏が、乱される。

名前を覚えたのは高校二年生の時だ。彼は、翠雨に告白をした。

飯沼翔悟。誰かの名前を印象的に思ったのは何年振りだったか。心が温かくなったのは、何年振りだったか。

しかし翠雨は、心を開かなかった。翔悟を避け始めたのだ。

裏切られたくない。傷付きたくないし、誰かといて別れる辛さを、もう感じたくはなかった。

それでも翔悟は翠雨に構う。翠雨はきついことも、酷いことも言った。わざと傷付けて遠ざけようともした。

「僕が嫌いなら、もう話しかけない。でも、少しでも僕を好きだと思ってくれるなら、そばにいることだけでも許してくれないかな」

翠雨の作戦は成功だった。ここで嫌いと言えば、元の平穏が戻ってくる。なのに、嫌いの一言が出てこなかった。

すでに遅かったのだ。避ける時点で、翔悟を気にしている。翔悟が話しかけてくる可能性が日常だったのだ。

結局、翠雨は嫌いと言えず、諦めを覚えた。でも、なぜか翔悟がそばにいる日常を諦めて受け入れてしまえば、心に平穏が戻った。

「……好きにしてください」

その時、笑った翔悟の顔を見て、自分がどんな顔をしたか、翠雨は知らない。

それから大学生になった翠雨と翔悟は、誰の目にも仲の良い恋人に見えたことだろう。

翠雨はまるで家族のように思っていた。過去、もう顔も思い出せない両親の、その温かい視線や、両親に抱いた温かい感情に近い思いを翔悟に抱いていると感じていた。翔悟からの視線が、自分の翔悟へ向ける視線とは違うことも、気が付いていたが、知らないフリをした。ここまで来て自分の感情と彼の感情を、認め、受け入れる勇気も度胸もなかった。

このまま、この生活が続けば。そう願うことは、翠雨の日常となり、さらに変化を恐れる理由にもなった。

いつものように翠雨の大学まで迎えに来た翔悟と、いつものように過ごす時間が訪れる。今日は展望台から街を眺めよう。そう言った翔悟と展望台へ向かい、夕日を眺めていた時に事件は起きた。

「カツゴロウ様」

鈴の転がるような声と、狂気の滲んだ視線を感じた。黒く長い髪に同じ色の着物の女性。虚な瞳が光っている。

翠雨を庇うように翔悟は前に出た。黒い着物の女性は翔悟へ手を伸ばし、まるで宝物を抱きしめるように胸に抱き込んだ。そして、幸せそうに呟く。

翔悟はだらりと腕を垂らしていて、意識がないこと翠雨にもわかった。

翠雨は自分でも驚くほど思考が追いつかず、体も動かない。まるで自分だけ時間の流れが遅くなっているようだ。

手を伸ばしたくても、どうしたら手を伸ばせるかわからない。

声を出したくても、喉が干からびたように声が出ない。乾いた息だけが吐き出され、音らしい音が出ない。自身の心音が耳の奥でうるさく響き、さらに思考を掻き乱す。

「これからは、二人で……」

黒い渦を開いた黒い着物の女性は、翔悟を連れて渦に入って行く。その時に、呟かれた言葉に、翠雨の心臓が一度だけ、強く跳ねた。

――平和に、ずっと……。

その言葉の悲痛さと切実さに、翠雨は覚えがあった。

その言葉の重みを感じた直後に、後悔が襲う。

黒髪の女性の言葉に動揺した隙に、黒い渦は跡形もなく消し去っていたのだ。

そこに彼がいないことが、今起きた出来事を事実だと痛感させる。ようやく伸ばせた手は、なんの意味も持たない。

サァ、と吹いた風は暖かいのに、心は冷え切っていた。吹き抜ける風が、手遅れだと伝えてくる。

事実を受け入れられない翠雨の思考は、翔悟との思い出を遡り、後悔を一つずつ上げていく。

翔悟に冷たい態度をとったこと。酷い言葉をかけたこと。翔悟の優しさと想いに甘え、気持ちを伝えなかったこと、受け入れなかったこと。

今、手を伸ばせなかったこと。声を出せなかったこと。

そうだ、と翠雨は思い出した。

「彼の名前を、呼んだことがなかったこと」

いつも翠雨の名前を呼んでくれる翔悟の声が聞こえた気がした。つい数分前に翔悟は翠雨の名前を呼んでいた。まるで数週間とも思えるほど、翠雨は思考と後悔を繰り返していた。

「いつか会えなくなることなんて、わかっていたはずなのに」

いつものように帰って来ると思って、ありがとうも、大好きも伝えられなかった両親への後悔。それをまた、繰り返すなんて。

自分の気持ちを受け入れず、言葉もろくに伝えなかった。

いつも迎えに来てくれた翔悟を、次は自分が迎えに行こう。この気持ちを伝えるために。

「また同じ後悔で、自分の気持ちを受け入れるなんて」

迎えに行くよ、必ず。人間をやめてでも。

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